青柳 卓也
株式会社ハートエステート
『データではなく感性で行う不動産のコンサル&仲介!』
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株式会社ハートエステート代表
青柳卓也からの
メッセージ
先日、弊社事務所でお客様と打ち合わせして、その日の夜に、そのお客様が経営されている飲食店に食事をしに行きました。
会うなり、お客様であるお店の店主に次のよう言葉を掛けられました。
「相談した仲介業者の方で店に食事に来られたのは青柳さんが初めてですよ!」
私としては、お客様のニーズに合った物件を紹介するためには、現状の店舗を見た方が最適な物件をイメージし易いから、という至極まっとうな理由からお店を訪ねているのですが、どうやら業界では一般的ではないようです。
ハートエステートでよくあるお客様からのご依頼のパターンは、以下のようなものです。
- 半年から長い方で2年程度、物件をずっと探している
- 大名周辺の不動産仲介業数社に物件探しを依頼済み。
- 希望する物件イメージが担当者にどうしても伝わらず、今まで1件も見学すら出来ていない。
- ほとんど物件探しを諦めかけた頃に弊社のことを人づてに聞いて来店
その後、お客様の話を丁寧に聞いて、ここからが私の真骨頂。
お客様の話から得られるイメージや直感を元に物件を探し、お客様にご提案します。
その結果、長期間見学すらできなかった方が『ここに決めました!』と、今までの停滞が嘘のように、即決されることがよくあります。
しかしながら、正直にお伝えしますが、私の感性には海同様に【波】がある様で、ビシッと決まる時と探せども探せども、決定打が出ない時もあります。
これはお客様とのご縁があるか否か?という事なのかも知れません。
父親の死に接して「どうせ死ぬのであれば、悔いの無い人生を送りたい」、そう思った小学6年生だった自分。
「死ぬ気でやれば、何をすれば良いかが判る」とウインドサーフィンの師匠に言われてバカの様にのめり込んだウインドサーフィン。
これらの経験を土台にして、出会ったお客様がその物件を選んで良かったと思ってもらえるにはどうしたら良いか、バカみたいに死ぬ気でくそ根性を出して考えることが、私の仕事です。
そうすることがこれまでがむしゃらに生きてきた自分に対する答えだと思っていますし、これまで支えて来てくれた家族や恩師、仲間たちへの恩返しだと思っています。
店舗情報
| 店名 | 株式会社ハートエステート |
| お問い合わせ | 092-406-5145 |
| Mail Address | |
| 営業時間 | 午前10時〜午後6時 |
| 定休日 | 日曜日 |
| Address | 〒810-0041 福岡市中央区大名1-1-3 石井ビル501号 |
| Website | https://www.heart-estate.info |
青柳卓也の自己紹介
石井ビルとの出会い、そしてmanu coffee
国体通り沿い、天神西通りのアップルストアからすぐ。
住所でいうと、中央区大名1丁目にある築58年を経た趣あるヴィンテージビル。
それが「石井ビル」です。
2011年、不動産の世界に足を踏み入れて10年経ち、独立を決めた私は、退職の挨拶をしに前職で担当させて頂いたこのビルのオーナーの元を訪れました。
その際にオーナーから「5階に空きがあるよ」とのお話があり、このビルに以前から愛着を感じていた私は、「入居します!」と即答。
その場で、石井ビルにハートエステートの事務所を構えることが決まりました。
オーナーとの会話の中で「1階のアパレル店舗が退去予定で、次のテナントを探したい」との話があり、その場の流れで「では、1階のお客様は私が見つけます!」と条件反射的に伝えました。
今だから言えるのですが、実はその時点で店舗仲介経験は1件しかなかったのです、でも自ら申し出たからには頑張るしかありません。
ただ、一つ私が胸の内で決めたことは、1階に入居して頂くお店は、この石井ビルにとってプラスになる店舗に入ってもらう、ということでした。
「博多の人を惹きつけるカフェに入ってもらいたい!」
入居してもらいたいお店の方向性はすぐ決まりました。
人の流れがビルの流れを変えるはず、との考えからでした。
私は、物件情報チラシなし、紹介者なし、ネット情報もなし、そんな状態で、ここしかない!と感じたカフェ「manu coffee 舞鶴店」に飛び込みで電話をして「社長に物件を紹介させてほしい」と申し入れました。
とりあえず面会に応じてくれた「manu coffee」の西岡社長でしたが、当然のことながら、なんの資料も持参していない私に半分あきれ気味のご様子でした。
それでも、私は西岡社長の生い立ちからコーヒーへの想いを2時間程じっくりお聞きした後、店内にあったチラシの裏面(!)に「石井ビル」の場所を手書きで説明しました。後から気付いたのですが、恥ずかしいことに、私は面積や賃料の情報も伝え忘れていました。
とりあえず出直しだな、と思って帰ったのもつかの間、その日の夜9時頃、西岡社長から電話がありました。
「いま石井ビルの正面、若宮神社から電話をしています」
という西岡社長の声。
びっくりしながら電話越しで幾つかの言葉のやり取りを経て、西岡社長から
「決めました!」と即決のお返事を頂きました。
現地案内
詳細情報
価格交渉
不動産営業では当たり前のプロセスが、何もありませんでした。
なにかの閃きと感性でお声をかけて初めてお会いした「manu coffee」の西岡社長についてですが、そもそも私は新店舗を出したいという希望さえ聞いたことがありませんでした。
そして西岡社長も、詳しい情報や条件は二の次で、自らの感性で決めて頂いたと聞いています。
そんな2人の感性がシンクロして生まれたのが「manu coffee大名店」です。
青柳卓也のHistory
| 1963 | 農家の三男として自宅にて産まれる。 幼少期にはカワイイ弟だった!(兄より) 小6の夏休み8月26日、朝目覚めたら家の中が騒々しい、父の病状が悪化し入院、その夕方に臨終、、、人の命の儚さを思い知らされた日となった。 |
| 1975 | 穂波町立穂波西中学校入学。 残念ながら運動音痴、50m走はクラスでビリ。 その為か運動会には大遅刻! 男友達とは仲良くでも女子とのご縁なし! 生まれも育ちも筑豊女の母の口癖は『くそ根性を出さんか!』であった。 |
| 1978 | 福岡県立稲築高校(稲築志耕館)入学。根暗な3年間を過ごす。いわゆる登校拒否かも? 自転車で1時間かかる高校へは雨の日と雪の日は休むと勝手に決めていた。 やはり彼女なし!美術の授業で描いた油絵は卒業の日まで教職員廊下に飾られていた。 |
| 1980 | 西日本短期大学 法律学科入学。 やっと思春期到来~ 恋愛とバイトがすべての2年間! あ~勉強もせずに親不孝者! |
| 1982 | JAふくおか嘉穂 ライスセンター臨時職員としてアルバイト!バイトしたお金で全自動洗濯機を母にプレゼント。 |
| 1983 | JAふくおか嘉穂 職員採用試験に合格!晴れて正職員となる。しか~し元気バリバリで夜は眠れない日々、、、笑 |
| 1984 | 『シティ情報ふくおか!』の広告を見て3日間のウインドサーフィンスクールに参加。 スクール生で一番下手くそのまま講習を終了! その後、気づけばウインドサーフィンにどっぷりとはまっていた。 |
| 1986 | JAふくおか嘉穂 一身上の都合により退職!退職翌日からロイヤルホストでアルバイト。日中は海でトレーニング、夕方から深夜はアルバイトの日々。 『プロウインドサーファーになってやる!』 その想いはドロップアウト初日には粉々に! あれだけ行きたいと願っていた海がとても暗く深いものに変わった瞬間、今でも忘れられない。しかしここで諦めず『死ぬ気でやった!』映画『Life 天国で君に逢えたら』コーチ役の哀川翔が演ずる藤堂さん、その人物こそが農協退職前に相談したウインドサーフィンの師匠。その名は石渡常原(つねもと)。彼は日本初のウインドサーフィン競技でアジア大会のゴールドメダリスト。 |
| 1992 | IBSAアジア選手権大会出場! (タイ王国ジョムティエンビーチ) |
| 1994 | 第49回国民体育大会 愛知県蒲郡市 わかしゃち国体! 国体ウインドサーフィン級 初代福岡県代表 IBSA世界選手権大会出場!(神奈川県 湘南 片瀬東浜海岸)この数年間、ドイツのウインドサーフィンブランド FANATICの正規ライダーとなる。日本の正規輸入代理店が1年前から九州各県で私の名前を聞いてのサポート確定したとのこと。私を推薦して頂いた方々には感謝しかない! |
| 1995 | ヨット競技 ワールドユース世界選手権大会 競技役員 (福岡市ヨットハーバー)ミストラル級 陸上本部長 |
| 1997 | 福岡での仕事を辞め、熊本へ宇土マリーナへの就職活動スタート! 本田技研工業 熊本製作所へ。本田技研ヨット部監督に直談判し、期間従業員として勤務。 |
| 1999 | 第54回 国民体育大会 熊本県宇土市 くまもと未来国体! 海上 発着水路B 運営役員 |
| 2002 | 宇土マリーナへの就職を断念! 失意の中、福岡に戻り熊本へのチャレンジ前に取得した宅地建物取引士の資格を生かして不動産業になりゆきで就職。 たまたま出会った方々に占いで言われたのは『あなたは水と土にご縁がある!』 まさにその通り海と不動産。 |
| 2003 | ここからが不動産業界のお話となります、順次UPさせて頂きます。 |
青柳卓也の趣味
人生で初めて本気になった、ウインドサーフィンというスポーツ。
地元の農協に就職した社会人1年生の時、「シティ情報ふくおか」の広告でたまたま見つけたウインドサーフィン教室(お盆期間3日間)に参加したのがそもそものきっかけでした。
当時の私は、もともと運動音痴だったこともあり、参加者の中で一番下手な生徒として3日間のウインドサーフィン教室を終えました。
その悔しさが逆に、私の闘争本能(?)に火をつけたのか、道具一式を即買いし、私のウインドサーフィンライフが始まりました。
「馬鹿じゃないか!?」という母や周囲の反対を押し切り、2年後には農協を退職して「プロウインドサーファーとして生きていく!」決意をしました。
少年時代と打って変わり、他人にはバカじゃないのかと言われるほど、くそ根性を出して死ぬ気で頑張りました。
この努力は、31歳の時に国体のウインドサーフィン級 初代福岡県代表という形で実を結びました。
後に気づくことになるのですが、身長も割と高く、痩せて比較的手脚が長い私の体型と、負けん気の強い性格はウインドサーフィンには持ってこいだったようです。
私が、人生をかけてウィンドサーフィンに打ち込んで学んだことは、次の3つです。
・その分野のトップの人からアドバイスを受けることがゴールへの近道
・死ぬ気で頑張ることの大切さ
・最後まで勝負は諦めないこと