原田愛

いとの森の歯科室
NO MUSIC,NO LIFEな歯医者♪

原田愛のプロフィール画像です。

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いとの森の歯科室について

いとの森の歯科室はちょっと変わった歯科医院です。

看板がないと、一般の民家と間違える方もいらっしゃるかも知れません。

歯科医院には普通存在しないお庭がついているので尚更です。


森の中にあるこの場所では、歯科医療だけでなく、患者様との語らいの場として、ご近所の方の癒しの空間として、カフェ空間を用意しています。

そこではコーヒーやお茶を提供したり、お菓子をつまんだり、持ち寄ったりして、楽しい時間を過ごせたらいいなと思っています。

子育て中のお母さんにも来院して頂けるように授乳室を設けています。
お子様連れの保護者が受診される際は託児サービスを行っています。

ご予約の時点でお伝えいただけますと対応できます。


また、お子様連れの方も安心して子供を遊ばせることができるような芝生やデッキもあります。

いっぱい遊んで汗をかいてしまったら、シャワーを浴びられるように、お風呂もあります。
汚れた衣服も、必要ならばこちらで洗います。


あと、写真をご覧になるとわかるようにピアノの空間も作りました。

音楽を愛する人たちが集まって、演奏会を開いたり、ときにはプロのミュージシャンに依頼して、コンサートを開いたり。昔からファンだったアーティストもこちらに来て頂きました。


ギャラリーとして使っていただいたり、地元の方のちょっとした会合の場としても利用していただけるといいなと思います。

皆さんが優しい気持ちで過ごせるような、そんな唯一無二の場所になれますように・・・。

いとの森の歯科室へのアクセス情報

お店の名前いとの森の歯科室
お問い合わせ092−332−2555
当院は少人数で診療を行っているため、診療の状況によってはすぐに電話に出られないことがあります。大変ご迷惑をおかけしますが、そのような場合、時間をおいて再度かけなおしていただけると助かります。
Mail Address 
営業時間9時〜17時 
定休日土日祝
Address〒819-1331 糸島市志摩久家1193-1
Websitehttps://www.ito-mori.com

歯科医師・原田愛の流儀

私の仕事においては、自分のこだわりを捨てることがとても大事。

こだわりを持たないことが、実は最大のこだわりだとすら、思っている。


100人のヒトがいたら、100通りの人生観があり、しかも、医療は対象年齢もさまざま…同じ家庭で育っていても、兄弟それぞれの性格もある。


ひとりひとりの背景を感じとりながら、疾病の程度や医学的な身体の発達段階を考慮し、その人の価値観を最大限尊重しながら治療方針を決めていく。

その過程において、「私」の「こだわり」など、入る余地はないのだ。

私の仕事は、歯科の職人であり、心理カウンセラーだ。

歯科は独特だ。

例えば全身的な外科手術では、全身または全身麻酔と局所麻酔の併用などで体動のない状態で治療できる。


治療が意識下なのか、無意識下なのかという前提の違いは、実はとても大きい。無意識下だったら、歯科はここまで嫌われないだろう。

我々の分野では、常に舌が動き、起きている人間だからこそ不規則に嚥下運動をし、唾液がたえず流れる部位がフィールドになる。


轟音を響かせかながら超高速回転をするドリルで、機械から出る切削熱によって組織が痛まないように冷却としての水流ジェットを流しながら、我々側ではコントロールの効かないフィールドで、ミリ単位の正確な治療をするということなので、医療の中でもかなり高度な技術を要する分野だといえる。


このような環境下での治療だからこそ、世の中の多くの歯科医師の治療がうまくいっていないのだろう…結果、歯科には恐怖感やトラウマを抱えた人達がたくさんいる。

「あそこに行ったら美味しいものが食べられる♡」「楽しい遊びが待っている♡」といった幸せな気分で足を運ぶ場所と違って、憂鬱な気分で来られる方が圧倒的に多いのも、歯科の特徴。

もちろん、私もそのイメージを持たれがちなひとりとしてスタートする。

 
最初は小さな処置で手際の良さや配慮を散りばめ、信じて、委ねてもらいながら…心理カウンセラーのように相手の心を開いていき、やがて満面の笑顔に変えられるほどの「感動」まで提供できないと、私の仕事は成り立たなくなる。

我々プロの技術不足のしわ寄せが、我々にくるならまだしも、なぜか患者側にいくということが、悲しいことであり、そういうことにならないように強い意志をもって日々の診療において完璧を目指しているのだ。

そこそこではなく、完璧を。


ただ、自分の中の基準では完璧であっても、相手基準で「完璧」でなければ、ダメなのだ。

なので、まずは己をすてること、己の基準ではなく相手の基準を探すことから始まる。


繊細な感覚がいっぱい散りばめられている口という器官は、食べるという行動だけでなく、話すこと、良くも悪くも見た目の印象を与えたり、臭いによっては他人に不快な印象すら、与える。

目で愛を語るとも言うが、実際に多くの人にとって最もわかりやすく愛を語るのは口であり、あえてロマンチックな目線でいうと、好きな者どうし、ときに愛を交わすのも口腔領域・・唇である。

私の仕事は、そういう、多岐に及ぶ役割を果たす器官の、機能回復を促すことであり、100人いたら100通りの治療のアプローチがあるのだから、当然、マニュアルなど存在しない。

職人として、ときに心理カウンセラーにもなりながら、変幻自在な引き出しをいっぱい持ち、引き出すタイミングや、引き出した技の応用の仕方、魅せ方、全体のタイムマネジメント…多種多様な要素を、常に完璧な形をイメージしながら演出して、最終的には「感動」へと持っていく。持っていきたい。

そう、私の仕事は、人の自然治癒力の手助けをしているにすぎず、喪われた組織とその機能を回復するために人工物を埋めたり装着していくこと。

 医療でもあるが、ひたすら「修理」をしているんだということを忘れないように自分に言い聞かせている。


修理したものは当然メンテナンスが必要で、“組織”が壊れた理由を説明し、他の部位が同じように壊れないような「対策(ケア)」を徹底して施すことに重きを置いている。

修理をして、自然治癒の補助をしているだけなので、何も偉そうにする必要も無いし、苦痛を伴うような修理など…ありえないと思うからこそ、その分野の職人としていかに「安全快適に」「スピーディーに」治す(直す)かを、徹底的に追究している。

治療という名に守られている我々の行為だが、自分は甘えないようにしている。仮に私自身が不確かな治療をしたならば、徹底して糾弾されてしかるべき、と。

 あと私が自分の全ての行動においてブレずに実行していることがあるが、それは物事の価値を「絶対的なものとして捉える」ことである。


 仕事以外で他者を評価することは、きわめて無意味な言動だと思う。だから、私は他人に対しては「協調」はしても、「同調」はしないと決めている。

学生時代も、集団行動はせずに徹底して集団から離れて授業を聞き、人に、とくに同性のグループには左右されない生き方を貫いてきた。

 モノの価値を決めるのは自分自身であり、そもそも価値というのは絶対的なものだから。私の価値は私が決める。

親が私のことを大切だと思ってくれていることが全てなのだ。人には絶対的な価値がある。他者が他人の価値をどうこういう権利など、ないのだ。

 他人の目を気にする人からみたら、人と違うことをしたらそれは「はみ出ている」と捉えられるのだが、本来、人とははみ出ているものであり、それをそれぞれの偏った枠の中におさめようとする行為自体、不毛なのだ。

私が今、唯一無二のサービスを歯科医師として提供できている理由があるとすれば、それは物事の価値基準は全て自分自身で決めて、他人に左右されることを嫌って、単独で行動してきたという、心の強さだと思う。

自由には責任が伴うが、責任を果たした者にだけ与えられる自由というものを思う存分満喫するのが私の人生の在り方であり、ポリシー。

原田愛の自己紹介

学校の教員だった両親が鹿児島の吐噶喇(トカラ)列島の平島で恋に落ち、父が「人生で一番幸せな瞬間だった」と懐かしむ、私がこの世に生を受けたのは昭和51年の6月、懐かしき昭和。

 
「愛」という、これ以上ないストレートな名前を付けてもらった私は、名前の通り両親や祖父母に愛され、とくに私を溺愛していた建具屋の祖父は、私が八神純子の「水色の雨」を弾き語る姿をみて、すぐにおもちゃのグランドピアノを買ってくれた。

私がピンクレディーが好きだとわかれば、全レコードとともに私専用のプレーヤーを買い与え、気がついたら、5歳にして音楽を楽しむ環境がかなり整った子供になっていた。

 

その頃の憧れはアラレちゃん。

本気でなれると思っていた。

アラレちゃんが鼻をほじった指を近づけたらスッパマンが宇宙まで飛んでいくわけですよ!この世界でいろいろな兵器がある中で、そのようなものを笑い飛ばすほどのかつてない破壊力をもちながら、とても愛嬌のあるキャラクターが、人生において私の心の師となった。

 アラレの次に憧れたのが「江戸を斬る」の松坂慶子。

紫頭巾という謎の覆面剣士は本当に色っぽかった・・・。

その流れがあったのか無かったのか、弟が好きだったハットリくんの本から得た「忍者になるための条件」でとても気になった「10メートルのふんどしを地面につけずに走れたら忍者になれる」という部分を確かめたくなり、前述の祖父のふんどしをこっそり借りてそれを数枚つなげて自分の腰に巻き(注:服のうえから巻いた)、近所の道を、日が沈むのを待ってから一気に走っていた私。結果は当然のように、地面にズルズル・・・。それでもいい。自分で実際動いて、自分なりに確かめることに意義がある、と。

 
さらに、正義感がものすごく強かった私は、小学校低学年の頃、上級生に遊具をとられた同級生たちが私のところに来て泣きついてきたらすぐに校庭へと走る子どもだった。

そしてそのままスタスタと上級生に近づいていって、それこそアラレちゃんのようにその回転遊具をつかみとり、次の瞬間思いっきり回して遠心力でその上級生男子を吹っ飛ばした。

その場で呆気にとられる同級生に対して、「ほら、もう大丈夫。みんな遊んでいいよ」と去って行く、そんな子供だった。

自分より年下の子たちから一方的に共有の遊具を奪いとるなんて、私のルールでは到底許されないことなのだ。友達は大事にはしてきたと思う。

 
ただ・・当時からグループ行動には全く興味がなく、放課後はいつも九州電力のショールームにひとり寄り道して当時最先端のテレビ電話をひとり楽しむ私がいた。

同級生の間でも、私の行動が怪しいと思われていたのか、気がついたらいつも男子数人が後をつけてきていた。

「あんたたち、こそこそ隠れていないで、堂々とついてきたらいいのに」と言ったら、徐々に仲間が増えた。

ちなみにショールームの大人たちはそういう小学生を苦々しく見ていたけど、あえて何も言わないでくれていた。

今大人になって考えてみたら、ショールームという空間の性質上、さまざまな葛藤はあっただろうな・・・。子どもの向こうには未来の顧客となり得る大人(親)が見える。だから子どもお断りとは、なかなか言えない・・。

 さて、このような子ども時代を経た現在の私は、性格的に、おもてなしの気持ちが常にあるほうだと思う。

うちの母がとても社交的で、父の仕事(教員)の支えになっている姿を小さいころから身近にみていたので、母同様、地域の人たちとの人付き合いは大切にしている。

 

地域の方と毎日のように飲み会を開く我が家は、母の美味しい手料理のおかげかいつもお客様がいっぱいで、朝起きたら私が酒臭い役場のおじさん達にはさまれて寝ていたことも多々ある。ああいうときの朝ご飯の気まずさといったら・・・。(なんで、俺らここで朝ご飯食べているんだろう)っていう、おじさん達の気まずさが我々子供にも十分伝わってきたが、それもこれも、うちの両親の人付き合いを大切にする性分ゆえ、と理解していた。

 

地域の人と仲良くなり、コミュニケーションをとるということは、とても大事なことだと教わったし、のちの仕事にもおおいに生かされることになった。

 「子供達が疑問に思うことに対しては、たとえ自分の専門外であっても全てその場で答えられるように」と本を片時も離さずに生涯を通して学び続けている父。

 

その父のプロフェッショナルな生き方を支える母。

 見返りを求めることなく、何事に対しても「まごころ」で人と関わっている両親をみてきたからこそ、今の私がある。

 

そして年を重ねるにつれ、この2人の性格が、私の中にも存在していると思う瞬間が、多々ある。

 

両親が私のことをテストの点数や通知表などで評価することなく、私がする行動の全てを「全て我々のしつけと教育の結果であり、子がするすべてのことは親も一緒に責任をもつ」という覚悟で「制限しない、管理しない」でいてくれたからこそ、自分の頭で考えて、行動できた。

 

 自己紹介というより、自分の生まれ育った環境について書いてみたが、やはり人にとって、生育された環境は大事だと思う。

 

 とてものびのびと育ててもらい、愛をいっぱいに受け、私は本当に幸せモノだという自覚があるからこそ、今は仕事においてたくさんの人にその幸せ貯金みたいなパワーをふりまいて、周りの人を巻き込んでワイワイと賑やかに楽しんでいる。

 

楽しい。

目の前で起こること、出会う人達、全てが楽しい。

子どもの頃からそれが不思議と変わっていないのだ。

 

原田愛のHistory

1976生まれる
1985初めての転校。牛が普通に道を歩いている、田舎の小学校へ。
1989中学校登校中に農業用水路に落ちたが田舎あるあるのヘルメットに助けられ九死に一生を得る。(人生に開き直る)
1990転校。1学年400人もいる大きな中学校へ。荒れていたその学校で、体育教師を引きずりながら廊下を歩くヤンキーに震え上がる。
1991のちに大学まで一緒にバレーボールをすることになる、憧れのポン先輩(女)に出会う。
1997バレーの試合中に左膝前十字靭帯断裂。ここから数年の間、再建手術やボルトの撤去手術などを経験することに。入院仲間と不思議な連帯感が生まれ、医療と医療に必要なありとあらゆる優しさについても考える。
1998麻雀、ソフトボール、深夜ドライブ、夜釣り・・・好奇心のまま参加していた頃。
2001北海道から鹿児島まで18切符で日本縦断。女がひとり居酒屋で呑みながら朝まで過ごすと店員に怪しまれるということを知る。
2003ピアノを夕暮れ時に弾ける生活をしたくて、フリーター生活へ。
2004 覚悟を決め、もう一度歯科の世界へ。ここからしばらくは仕事に邁進する日々が続く。この間に分院の開業2回、副院長、院長を経験する。
2009スミレ歯科を開業。
2016いとの森の歯科室を開業。

原田愛の趣味

文房具

小学校の帰りは、いつも文房具巡りしていた。

家の周りに三軒、文房具屋さんがあって、陳列棚にある商品はもちろん、在庫が入っている引き出しの中身までチェックし、常時把握していた。

いまだに文房具コーナーにいるときが極上のひととき。

本、CD、雑貨、インテリア…DIYコーナーでネジや釘を見ているだけでもワクワクしてくる。ありとあらゆるモノが好きて、モノの形状や仕様を観察するのが好きだ。自分好みのデザインや質感に出会った瞬間の気持ちの高まり方が人一倍強いと思う。モノやデザインに出会うために動いてきた。

列車

他に好きなものは、ひとり旅。

そして、移動手段として一番好きなのは、列車だ。

学生時代、青春18切符で北海道から鹿児島まで一人旅で縦断したり、映画の「絵の中のぼくの村」や「四万十川」を観てその景色に憧れてふらりと四国に行ったり、してきた。

東北を通るときには当然のように宮沢賢治のことを思い、ワンマン列車で「伊賀」を通過したときにはまるで忍者になった気分で景色を眺めていた。

時刻表は読むだけで夢が広がる。

本屋で売っているものの中で一番ワクワクする。日常でも旅でも、ひとりが一番気楽でいい。

行き先も自由で、途中の予定変更も楽しいからだ。

料理・裁縫

好奇心旺盛で、何事も実際やってみることが好きな私は、料理も小学校低学年から、お菓子は高学年から、自分で市販のレシピを研究しながら実践してきた。料理は愛そのものだと思っていて、自分自身の心がそれに反映される。それが面白く、とにかく飽きがこない。


 裁縫もそうだと思う。可愛いいとこ達のために小学校入学時には人気キャラクターの刺繍まで施しながらシューズ入れや手さげ袋を作ってきた。それをみんな小学校卒業まで使ってくれて、使い古したそれを各々私にみせてくれたときは感激ひとしおだった。

母親が家庭科の教師をしていたこともあり、家庭科全般が私にとってはとても身近で、「できて当たり前のもの」だった。しかも、母の持論として、「料理の段取りは仕事の段取りと同じ。料理ができる人間は仕事もできる。だから勉強よりも料理の手伝いをしたほうが社会で役に立つ人間になれる」・・そんなニュアンスのことを小さい頃より言われてきたので、かなりの時間、台所に立ってきたと思う。

吉本ばななの「キッチン」の冒頭の有名なシーンがあるが、私にとっても、キッチンが一番落ち着く場所であったので、試験勉強もケーキを焼きながらとか、煮込み料理をしながら、が多かった気がする。

ケーキに至っては、友人の結婚式で三段のウェディングケーキを作ったり、自分なりには満足のいく趣味生活は送ってきたのかな、と思う。

ピアノ

こんな感じで私はかなりの趣味人であるが、一番はピアノで、(私の年齢マイナス4)年は弾き続けているが、純粋に愛しているピアノだけは仕事にしたくなくて、今の仕事に就いた。

むしろ趣味を維持するために職業を決めたと言っても過言ではない。グランドピアノと、グランドピアノを思いっきり弾ける郊外の一戸建て(ピアノを収納する箱)を買うためには仕事で稼ぐ必要があったからだ。実際、10数年かかったが、家とピアノ(スタインウェイ)を手に入れた。計画は、遂行できた。

給料の使い途として最大の喜びが、週末の楽譜選びとなっていった。著名な作曲家はもちろんだが、ドレミ音楽楽譜出版社やYAMAHAの編曲家の名前も必ずチェックし、同じ曲でもアレンジ違いで集めてしまうくらい、楽譜選びにはこだわりがある。楽譜コーナーで3時間くらい楽譜を読み耽っている女がいたら、それが私ということで間違いないと思う。

オタク気質と好奇心

他にも、誘われれば麻雀をしたり、夜な夜なイカ釣りをしたり、ソフトボールしたり・・.

遊んでいて心底楽しいのはやはり男子との遊びだったと思う。

趣味に没頭する楽しさを心底知っている彼らと遊ぶのが、一番気楽だったなあ(しみじみ)。