長崎県は雲仙市の小さな田舎町の酒屋の長男として幼少期を過ごしました。
店内での風景は(特に人間模様)視点が面白いと言われる私の原点だと思います。
物心ついた頃には、店番を手伝ったり、父に軽トラックに乗せられて配達に付き添っていたので、必然的に人と触れ合う機会が多く、引っ込み思案な性格はどんどん影を潜め、町でも有名な目立ちたがり屋への道を歩み始めました。
小学校に入学して早々に、書道やそろばんなど、いくつかの習い事に通っていたものの、いかんせん落ち着きがなくジッとしていられない性格の私を見かねたのか、礼儀や挨拶に厳しかった父が勝手にソフトボールクラブに入部を決めた事が功を奏し、高校3年生の頃に、第80回記念 夏の甲子園にレギュラーとして出場するまでになったのです。
根性論と汗にまみれた野球漬けの日々の中で、挫折を繰り返し、もがき、仲間達と熱くなれた事は、沢山の人達の支えに気付くきっかけになりましたし、何事にも感謝の気持ちを忘れずにいたいと思えるようになりました。
野球とはかけ離れていますが、暇さえあれば夢中でファション誌を読みあさるほど洋服が好きで、スナップ写真を見ながら、いつかこんな風に掲載されてみたいという密かに憧れを抱いていました。
福岡の大学を卒業後、インポート服中心の卸の会社に就職し、営業や倉庫内の在庫管理の仕事を経て、ついに色々なご縁から、大名の路面のセレクトショップYIELDに立つチャンスが巡って来たので、後悔したくない気持ちで働く決断をした25歳の私は、右も左もわからず戸惑う事ばかりでしたが、またここでも沢山の人達の支えによって、対面販売の面白さや奥深さの魅力に取り憑かれ、夢見ていたファッション誌に掲載されるようになったばかりかTVの取材を受けたりもするようになりました。
10年以上洋服屋として、街で有名な目立ちたがり屋を続けたおかげで、ファッションと眼鏡の距離が縮まった今、 ポテトメガネビスポークの店頭に立つ事が出来ています。