—–へー、そうだったんですか!
話は変わりますが、今はナカマル醤油の看板商品のひとつになっているパンかけ醤油ですが、面白い商品ですよね。
ありがとうございます。それが最初は全く売れなくて大変だったんです。偶然スーパーで民謡か音頭のような歌を聞いたことをきっかけに、パンかけ醤油のプロモーションソングを作ることを思い付いて。
それで以前取材に来たテレビ局のディレクターにお願いして取材に来てもらい、カメラの前で商品の紹介と共に自作の『パンかけ音頭』を僕が歌ったんです。その結果、多くの人に知ってもらいようやくパンかけ醤油は売れる商品になりました。今ではナカマル醤油の看板商品のひとつになっています。
—–自分で歌を作って歌うってなかなか出来ないと思うのですが。どうしてそれが出来たんですか。
実は子供の頃、うちの醸造元にはいつも歌を歌いながら力仕事をするおじちゃんがいたんです。おじちゃんは当時男手が足りなくて大変だったナカマル醤油の力仕事を一手に引き受けてくれていました。
そして、おじちゃんは本当に歌が上手な人でした。おまけに彼が歌う歌は一つ一つが短かったから強く印象に残るんです。彼の歌声を聴くと周りにいる人の心がぱ~っと明るくなって解き放たれるような感じがしました。
子供の頃の僕はそんなおじちゃんといる時間がとても⻑くて、一緒にご飯を食べたりと日常生活をずっと一緒に過ごしていました。茹で卵や焼き芋を一緒に食べたのもいい思い出です。
子供だった頃におじちゃんの歌声に慣れ親しんでいたからこそ、自分でプロモーションソングを作って歌うっていうアイデアが出てきたのかも知れません。
—–そんな物語があったんですね、そんなおじちゃんとのエピソードで他に何かよく覚えていることがあれば教えて下さい。
僕の心に一番残っているのは、大人になって家業を継ぐために宗像に戻って来た際に晩年のおじちゃんに会った時のことです。僕は内心うまくやっていけるかすごく不安だったので、何気なくおじちゃんに聞いたんですよね『これから醤油屋として、僕はやっていけるかいな。』って。
そしたら『一生懸命頑張りよったら、何とかなる。何とかなるよ多知君。』って言ってくれて。それがすごく説得力があって、おじちゃんがそう言うんだったら何とかやっていけると思えました。当時の僕にとって大きな一言でした。
—ジーン
今ではたくさんの商品がラインナップされているナカマル醤油さんに、そんな経緯があったとは。それにしても、パンかけ醤油をはじめユニークな専用醤油がいっぱいありますね。
はい、様々な醤油加工品を出し始めたのはお客さんからのリクエストがあったのと、醤油の消費量が年々落ちていることへの危機感がきっかけなんですよね。
1990年代までは個人宅の配達で醤油瓶10本ストックなんてのが当たり前でした。それが『必要な時は電話するけん、その時持ってきて』に変わって、それも次第に『直売所かスーパーで買うけん(持ってこんで大丈夫)』という風に変化していきました。2000年代になると少子高齢化の影響もあり、醤油を使わないメニューが増えて、より一層醤油の消費は落ち込みました。
業界紙なんかを見ると、その代わり増えているのは、ドレッシングやオリーブオ イルの消費なんですよね。そこで、最近ではパスタやカルッパッチョに使うオイル入りの醬油も製造しています。
でも、地元の人はこういうんですよ。
『いつも変わったことして目立ちたいとやろ?』
いやいや、ただただ僕は必死なだけなんですよね。今も日々どうすればナカマル醤油醸造元がこれからも生き残ることができるか、自問自答しています。毎日の仕事をこの蔵の仲間たちと大切に積み重ねる日々です。