八尋健次

オーガニックパパ代表
一周巡って辿り着いたオーガニック農園

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オーガニック・パパ代表

八尋健次からのメッセージ

“副業農園のすすめ”

『誰にでも出来る無農薬農業』を提供したい

私は福岡県筑紫野市で障害者や仲間達と共に、キノコの菌床いわゆる微生物を活用したオーガニック農園を経営しています。


安心安全で何より本当の意味で身体を造る力強い野菜を、
全ての子供達や障害者、病気の方、社会を支える働き盛りの大人達、お歳を召された方、あらゆる全ての人々に食べて欲しいと願い、日々畑に立っています。


このような考えのもと、
農福連携事業福祉サービスをベースとした農園経営を実践しています。

しかしながら、
2018年に起きた西日本豪雨では、ほぼ全ての畑が壊滅するという経験をし、それを成し遂げるには今のままでは到底不可能であると改めて思い至りました。

皆さんも想像出来るかと思いますが、無農薬野菜を育てるのには手間と長い時間が掛かります。

抜いても抜いても直ぐに生えてくる雑草。

 

菌床以外に肥料を撒かず微生物のノンビリとした活動に委ねるが故の時間が掛かる収穫。

 

農薬や肥料を使用すれば、畑は容易にリセット出来るでしょう。

けれども、私はやっぱり皆さんに身体が健康になる良質な野菜を食べてもらいたいのです。

命の元となる安全な食物を、全ての人々に行き渡らせるには、どうしたらいいのだろう?

今、私の手元にある考えはこの様なことです。


それは農家だけが農業をやるのではなく、
誰もが我々の持つ技術のサポートを受けて、農業を正当な対価を得られる副業とし、何より土との触れ合いを通じて『生きる喜び』をも大地から頂く、ということです。


農業をする人も、それを食べる人も、みんなが幸せになる。


私は、この事業を副業農園と名付け、これから広めて行こうと考えています。

副業農園を通じて『誰にでも出来る無農薬農業』を提供したい

農業は、人に幸福をもたらします。

これまでに1000人以上の人が、私の元へ『農業を始めたい』と言って訪ねて来ました。

そうしてたくさんの橋渡しをして来ました。

農業が幸せの鍵だったという人がたくさんいました。


けれども一方で、専業農家の辛さも経験しました。

無農薬野菜でいうと、コストと売値の価格が合っていない現状があります。割りに合わないながらも頑張っている。

一方で、世間では障害者の働ける人のうち、500万人中11%しか働けていません。


また、企業が使いたくなくなれば追い込んでいく都会の人材システムに翻弄される人、

何でも買うことに慣れいざ仕事を離れると生きる術のない人、

子供が離れて燃え尽きてしまった人、

拠り所のない不安に苛まれる方々が沢山いらっしゃいます。


私は、障害者の方だって障害者年金と副業があればいいと思います。


本業の仕事が減って時間を持て余している人は、農業もしたらいい。


病んでいる人も、社会ではフルで働けない人も農業をすればいい、私の経験で言えば症状が軽減する方が多いです。


微生物を使った農業で人が元気になっていくのだと思います。


一個の家、一個の仕事、これにより見えない負荷を置い、心や体に症状が出ていませんか。


テレワーク出来る人は地方にたくさん移住して、農業を副業とし、生きていく為の術を身につけ、生き生きと生きて欲しいと願います。

 

私たちの農園では、この副業農園を実践してもらうに当たり、畑を耕し畝を立てるところまでを我々で担い、種を撒くところからスタートしてもらっています。


そして、野菜が出来て売る段になり、最善のルートを持つ我々がまたサポートします。


微生物による『誰にでも出来る無農薬農業』を提供しています。

 

今、副業農園で作る野菜は、私たちの野菜を超える程の出来栄えです。

皆さん農業を楽しんでいるからでしょう。


すべての人に農業の喜びを知ってほしいです。

農業は稼ぐための時間でなく、生きるための時間です。

大きな法人があって、コミュニティーがあり子供も預けていいところ。

そんな拠り所になれればいいのですが。


高2でエチオピアの子供の映像に絶句したあの日から時は経ち、50代でまだこれから実践したい事は尽きません。


自分自身も未だ軸の言葉を探しています。

見つけ切れていない様に感じるし、言葉にするとそれだけじゃないとも思います。


でもひとつ言えるとすれば、たったひとつの瞬間、そして出会いが人を変えると信じています。

オーガニック・パパについて

オーガニックは、
正しい知識を学び、実践する時代へ

昨今、農と食のあり方について大きな変化が生まれている様に感じます。


これまでのような経済性に直結した行為しか株式会社は実践できないとか、合理性を追求し続けなければ競争社会に生き残れないなどの考え方は、もはや古く違和感をもたれてある方も多いと思います。


本物を追求すると手間がかかるのは当たり前、

経済性が伴わなくても守るべきものが存在することを実感し、永続するビジョンを企業活動と重ねて考えることに価値を見出す企業トップとの出会いが後を絶ちません。


時代の節目を感じております。


そのおおもとは、

昨今の夥しい数のアレルギー症状や原因不明の近代病、増加の一途を止められない成人病やうつ症状が、平然と存在し身近なものとなってしまったことに危機感を感じてのことではないかと私たちは考えます。​


私たちは、自然なものをできるだけ手づくりで食べるあたり前の食習慣を基本に、また生態系に負荷をかけず、すべての生き物と調和のとれた農のあり方に自分たちの活動の根源を追求してきました。


いま実践している事業や提供するサービスに、そのイメージから離れたものは一つもありません。



これからも同じことです。

 
美味しいものを追求したら、自然とオーガニックなものになってしまうもの。


豊かな食に満ち溢れた楽しい食卓のために、オーガニックは切り離せない考え方です。

 

オーガニックパパは、平和なゴリラ社会を築くシルバーバックのようなリーダーを
応援し続けていきます。


子育てするパパとその家族のための会社です。

店舗情報

店舗名オーガニック・パパ
お問い合わせ092-408-2024
Mail addressyahiro.organic.papa@gmail.com
営業時間10:00〜17:00
定休日日曜日
Address福岡県筑紫野市永岡182-2

八尋健次の自己紹介

なぜ私はあらゆる人々に食料を届ける事が
出来ないのだろう。

代々農家を営む一家に生まれる

私は1971年10月、筑紫野市に代々続く農家の長男として生まれました。

やたら家がでっかくて、じいちゃんばあちゃんがいて、鶏が70羽いて、肥料があって臭くて、家族はいつも忙しくて、農家の”普通”は最高にカッコ悪いと思っていた。

小学生の頃、サラリーマンを父に持つ友達の家に遊びに行くと、お母さんが紅茶とケーキで迎えてくれて。漬物しかない出せないであろううちが農家だとは、とてもじゃないが言えませんでした。


だからもうとにかく農業が大嫌いで、一刻も早く大人になって外で稼ぐことしか考えなかった。

 

早熟過ぎた高校時代、私は「欲しいものを我慢しない」という向こう見ずなポリシーから何百枚というレコードや数え切れないほどの映画鑑賞、CGを制作する為の数十万円するマッキントッシュと、止め処なく散財しました。


よって何が何でも働かざる得なくなり、近所のレストランを皮切りにして、直ぐに中洲のナイトクラブやキャバレーでアルバイトをし始めました。

とにかく遊んで遊んで働いた高校時代。

高校の自分のクラスには『南と八尋』という二人でひとつの机しか置かれなくなりました。

もう子供がやってはいけない事は、ほぼやり切ってしまった。

24時間テレビから流れる映像に衝撃を受ける

そんな高校2年生のある日。

偶然テレビから流れて来た映像に、私は絶句しました。


24時間テレビの冒頭で映し出された、栄養失調でハエがたかるエチオピア難民の子供たちの、その光景。


何なんだこれは。こんなことは絶対にあってはならない。


こんなことが許されるだろうのか。そう思いました。


“人は生まれた瞬間から、健康になる良質な食べ物を腹一杯食べる権利がある。”



農家に生まれ育った私にとって『お腹いっぱいに食べる』ということは、当たり前過ぎる当たり前でした。

 

人は生まれてきていい、生きていい。
私は、散々好きなことをしていても食べていられる自分が悪いことをしている様に感じ、許せなくなりました。

 

飯が食えない人がいることが許せない。何の行動もしていない俺はまるでだめだ。

 

今思えばそれは、あんなに嫌がっていた農家に生まれつつも、やはり身体の中に紛れもなく存在していた農業人としてのプライドだったのかも知れません。

青年海外協力隊を志す

青年海外協力隊に行き、自分に出来ることをしよう。
そう決めた私は、勢い勇んで協力隊になるための試験を受けました。
そして、なんと見事に続けて3度落ちました。

自分が如何に勉強していなかったかを思い知りました。ならば派遣してもらえる技能を身につけようと、ボーリング技師とカメラマンに的を絞りました。

早速ボーリング会社に就職しました。

しかし働き始めて直ぐに、その技能がはるか遠い未来にしか身に付かないという現実を目の当たりにし、とても待ちきれない、と7ヶ月で辞めました。

次はカメラマンでした。

映像プロダクションに20才で再就職、入社2日目には小突かれながらも『めんたいワイド』のアシスタントをしていました。

その後なぜか見込まれてしまい、親会社の人材派遣会社に栄転となり、悲しいかな念願のカメラマンから遠ざかってしまいました。

青年海外協力隊員になるという私の野望は、一向に叶う気配がありませんでした。

一周廻って農業の道へ

しかし、そこから任された仕事に邁進し、最後は建築メーカーの運営する民間直売所・糸島『伊都安蔵里』の代表となりました。

そこでは私は、もっぱら農家で地主さんの相談役兼何でも屋でした。


嫁姑の愚痴から、家の修理、相続問題、色々と引き受けているうちに”農家”に対する見方がガラッと変わりました。


職業や年収や利害関係を超えた井戸端仲間とその庭先で酒を酌み交わす時には、みんなが一番お金を使えない人に合わせるのが暗黙の了解でした。

とにかく農業をしている人は笑顔がいい。

穏やかで余裕がある。


外でお金を使っていなくてもみんな幸せそうでした。

農ある暮らしは不安がなくて生き生き出来る、と確信した経験でした。


その様な経験を経て、ぐるっと巡って農業に戻って来た私は『今自分が出来ること』を考えています。


我々の持つ無農薬野菜のノウハウをたくさんの方々に提供し、様々な境遇にいる皆が共に幸せに生きるための手助けとなりたい。

そのビジョンに向かって、私と仲間達はこれから様々な実践をしていこうと思っている所です。

八尋健次の趣味

昔は、映画とグラフィックと音楽が好きでした。

映画依存症で、映画を見ながらじゃないと眠れない高校時代。

ラストオブモヒカン、The rock

ズームを使わないなど、構図に対するこだわりを感じ作品を通じて監督が好きになりました。

そのうち映画監督になるのが夢になり、ついには高三の時に100万以上するするマッキントッシュを買いましたね。映像を作りたくなったから。娯楽性があるエンターテイメントを生み出したいと思っていました。

レコードも数千枚持っていました。

ジョンリーフッカー、オーティスレディング、初期のデビットボウイ

 

そうそう、山下清のドラマ「放浪記」や、フォレストガンプ、レインマンも惹かれます。

そこに出てくる園長先生や施設長に憧れるからだと思います。

人には帰る場所が必要で、帰る場所にはこういう変わらない人がいてくれるものです。

それを提供出来る人になりたいですね。

その一方で、目の前のドル箱抱えながらパチンコしてる様な、しょうもない人間に思われていたい。

って、一体人って何なのでしょうか。

八尋健次のHsitory

1971福岡県筑紫野市にて4代続く専業農家の長男として生まれる。父親がプロ野球が好きで、家ではプロ野球の実況中継がよく流れていた。
1980小学校時代、やたら家がでっかくてじいちゃんばあちゃんがいて、農家の普通は最高にカッコ悪いと思っていた。 友達の家に行くとケーキが出てきて。。。 漬物を出せるわけがない。とても家が農家だとは言えなかった。 街中の住宅地に住むサラリーマン家庭に憧れた。
1983地元の中学校に入学。不良はカッコ悪いと思っていたが、タ○コは隠れて吸っていた
1986太宰府高校英語科入学。同期は13名。ほとんど授業に出席しなかったため、悪友と私の2人には、ふたりで1つ分の机しかなかった。
1987高校時代はレコードを買うためにアルバイトに明け暮れる毎日。最初は近所のレストランで働いていたが、しまいには中洲のナイトクラブでバイトをするように。欲しいものはなんでも買っていた。高3の時は、映画好きが講じて自分で映像を作りたくなって100万を軽く超えるマックを購入したことも。
1989第一経済大学を受験するも不合格。太宰府高校卒業。当時世の中はバブル真っ只中で猫も杓子も海外旅行の時代。ハワイに憧れて九州観光専門学校に入学したが、思い描いていた仕事内容と異なっていたためすぐに中退。
199024時間テレビ「愛は地球を救う」の冒頭で、ハエがたかる栄養失調とおぼしきエチオピア難民の子供を見て衝撃を受ける。飯を満足に食えない人間がこの世にいることが許せないと思った。その状況を自分がどうにか変えたいと思い海外青年協力隊の試験を3回受験し、3回落ちる。ボーリング(井戸やトンネルを掘削すること)の技術かカメラマンの実績があれば海外青年協力隊に参加できるということを知り、俄然この2つの職業に興味を持つ。
1991

ボーリングの会社「九州グラウト」に就職する。ところが入社後、海外青年協力隊が定める参加基準を満たすボーリング資格を取得するには20年以上勤続する必要であることがわかり7ヶ月で退職。次はカメラマンとなるため、「ビックベン」という映像制作の会社に入社。入社2日目には、当時地元では有名だった「瑠璃色の砂時計」という番組のロケに駆り出される。その後「めんたいワイド」などに関わる

1992人事異動で、親会社である人材派遣会社の営業職に抜擢され、悲しいかな海外青年協力隊参加への道が遠のく。
1993人材派遣会社で営業の日々。業界が立ち上がって間もない頃で、今思えば毎年すごい勢いで業績が拡大していった。
1999志免町にある建設会社(マキハウス)に転職。アパート等特殊建築物専門の営業職となり、クライアントである様々な農家兼地主の人々と接することに。結果、ずっと嫌いだった農家に対する見方が大きく変わる。まず第一に農業をしている人達は笑顔がいい。エンゲル係数が低くお金を使わなくても幸せだと、人は穏やかになるのだと思った。    
2010マキハウスの新規事業として、糸島に農業生産法人伊都安蔵里株式会社を設立。その後2013年にグリーンハンド株式会社に社名変更。
2011有機農産物の小売・卸販売・食育事業を行う株式会社オーガニックパパを設立。
2018記録的な被害を各地にもたらした西日本豪雨で、自社菜園が壊滅的なダメージを受ける。流石に数時間凹むも気持ちを切り替えこれからはもっと多くの方に農業に関わってもらおうと意を新たにする。

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