菊野昌宏 独立時計師日本人初のスイス独立時計師協会正会員 \シェアする/ 独立時計師とは大資本メーカーの分業制による生産が常識となっている時計業界において、着想からコンセプト立案、ねじ一本の制作から組み立てに至るまで、ほぼすべての工程を個人もしくは少人数の工房にて行う時計職人のことです。スイスに本部がある独立時計師アカデミー(AHCI)に認められた現役職人は世界でわずか33人のみ。現在、日本人の正会員は2名ですが、日本人として初めてこのアカデミーに認められ正会員となったのが菊野昌宏です。 【菊野昌宏 略歴】 北海道深川市生まれ。深川西高校卒業後、自衛隊に4年間所属したのち時計作りを志して時計の専門学校に入学。ところが大資本をベースに高額な工作機械を駆使して製作される高級腕時計の現実を知り、独立時計師への道を諦めかける。そんな折、江戸時代に田中久重がほぼ1人で手作業の末完成させた万年時計のことを知り、独学にて和時計の腕時計製作を一念発起。無我夢中で取り組んだ結果3ヶ月にて和時計の腕時計を完成させる。この和時計がきっかけとなり、スイスの著名な独立時計師フィリップ・デュフォー氏から世界的に有名な時計・宝飾見本市バーゼル・ワールドへの出展を誘われたことをきっかけに独立時計師への道を歩むことに。 日本人初のスイス独立時計師協会正会員 菊野昌宏からのメッセージ なぜ手作りの機械式時計が 今の時代に求められるのか 精度・質・コストなどを時計制作の目的だと考えると、今の技術レベルでは圧倒的に人間が作る意味は薄れています。ではなぜ手作りの機械式時計が今の時代に求められるのか、その存在意義とは何なのでしょうか。それはやっぱり人がキーワードなのかなと僕は思っています。一つの事に特化して分業化するというのが機械の得意分野です。それに対して、ある意味人間のデザインというのは、見ることも出来るし、指を動かすことも出来るし、歩き回ることも出来る。 そういう色んなことが出来るというのが、機械にない人間の素晴らしさなのではないでしょうか。時計を求めるのは人です。人との親和性がないものに人は魅力を感じることが難しいです。自分と同じ身体を持った人間が、精緻な時計を作る。その驚きとワクワクはオリンピックの100m走を見るような感覚に通ずると思うんです。そして個人がひとりで作るという価値は、テクノロジーで置き換えることの出来ない価値だと僕は思っています。個人の個性は機械には置き換えられません。ひとりで作るということが、時計に人間らしさを与えているのかなとも思います。精度や質、コストも大事ですがそれ以外の価値もある。それを大切にしたスタイルのものづくりがあっても良いと思うんです。単に機能としての時計ではなく、替えのきかない「存在」となる時計を作る。そして作り手、使い手双方が豊かな時を過ごすことができればいいと思っています。 菊野昌宏の自己紹介 レゴが大好きだった幼少期 僕は3人兄弟の長男として北海道深川市に生まれました。子供の頃は、積み木、折り紙、レゴブロック、プラモデルなどでよく遊ぶ子供でした。2歳頃のエピソードらしいのですが、農家を営んでいた祖父の家に車の説明書があって、その取扱説明書の最後の方に載っている『車のパーツ展開図』を見るのがとても好きで、祖父の家に遊びに行くたびにその説明書を出してきてもらい、飽きるまでよく眺めていたそうです。 父は金属加工会社に勤めていました。タングステンという非常に硬い金属を加工するのですが、当時は電球のフィラメントに多く使われていたと思います。他にもロケットのバルブだったり特殊なものに使われるものを作っていました。ものづくりが好きな父は、家ではプラモデルもよく作っていましたし、今思うと、そういう部分を自分が受け継いでいるのかな。職種は違えど父と同じく金属加工をする独立時計師という仕事をしているのは不思議な縁だと思います。 レゴが特に好きで、幼少期から中学高校くらいまでよく遊んでいました。まず説明書通りに作ったあとは、箱の裏面に載っている作例の写真を見て、想像しながら作るのが大好きでした。1つの角度から撮られた写真が一枚載っているだけなのですが、それを見ながらこの裏側や側面はどうなっているだろうと考えて再現するのが楽しかったです。その体験は、今の仕事にも役立っていると思いますね。残念なことに、今のレゴブロックにはそれがなくなってしまったんです。分からないものを載せるのはどうなのかというクレームがあったとか。僕にとっては、分からないものを試行錯誤して作ってみるという、それこそがレゴの醍醐味だったのですが。 そんな感じで、小学生の頃はインドア派でした。友達の家に遊びに行ったら、友達は外で野球やっているんだけど、僕は友達の家の図鑑をずっと読んでるという様なことがありました。昆虫や動物や車など、図鑑はとにかく大好きでしたね。プラモデルも好きだったのですが作る時は、中の構造まで作りたくて、戦車をよく作っていました。 小学校5年生の時に不登校に。 実は小学5年生の時に、半年ぐらい登校拒否をしていたことがありました。いじめられてたわけでもないし、今となっては自分でも何でだったのかはっきりとは覚えていません。ただその時ぼんやりと思っていたのは、人間って矛盾を抱えた生き物だなって。 例えば、大人は信号を渡りなさいと言っているのに斜め横断をしたりしてルールを守らないのは何でだろうとか。自分もそうで、学校に行かなくちゃいけないのに何で行けないんだろうと。どんどん負のスパイラルに陥ったのかなと思います。自分の子供がそんな状態になるなんて、親も先生もショックだったろうと思うんですが、周りの大人達が悪いわけじゃないんだけどな、と僕は申し訳なく思っていました。最初は親も先生も僕が学校に行ける様にと色々試してくれてたと思うんですけど、逆にそれが僕の負担になってしまっているようだと気づいてからは、親は僕に「学校に行きなさい」とは言わず辛抱強く見守ってくれました。内心皆ハラハラしていたと思うのですが、当時の僕にとっては本当に有り難かったですね。そんな中、ある友達がよくうちに遊びに来てくれる様になりました。来たら学校の話なんか全くしないで純粋に私と遊んでくれたんです。それが楽しくて嬉しくて、徐々にまた学校に行ける様になりました。ちょっと完璧主義だった自分が社会との折り合いを多少なりともつけられるようになったのかも知れません。今思えば僕自身少しゆるくなれたのだと思います。 高校卒業と同時に自衛隊へ入隊。 高校を卒業する時、僕に大学へ進む選択肢はなかったですね。特に勉強したいこともなかったので。デザインなどの専門学校に行こうかなとも思ったけど、行っても2年間遊ぶだけになりそうだなと思って。あんまり行きたくないのに、結構な額の学費をかけて行くのもちょっと勿体無いなと思っていたところに、高校に自衛隊の広報官が来てくれて説明会を聞く機会がありました。その際に整備の仕事の話を聞いて、面白そうだなと思ったんです。普通は触れない銃や特殊な装備品を整備するというのに惹かれました。何かやりたいことが見つかるまで自衛隊で身体を鍛えて、お金を貯めて過ごせればいいかなと、それで自衛隊に飛び込んでみようと覚悟を決めました。 自衛隊に入る時は、髪を一応スポーツ刈りくらいに短くして行ったんですが、着いたらいきなりバリカンで更に短く丸刈りにされて。もう羊みたいになってですね。ああここの一部になるんだって思った瞬間でした。入ってすぐに新隊員教育というのが3ヶ月間あるんですが、8人くらいだったかな、それまで高校生とかで集団生活なんかしたことない人達が、ひとつの部屋に二段ベッドで生活しながら一緒に訓練するんです。そこでの経験はとても衝撃的でした。 高校生くらいの時って、若さゆえに生意気っていうか、自分は人とは違うんだみたいな変なプライドの様なものがあるじゃないですか。それが自衛隊に入ってまずいきなりぶち壊されました。馬鹿になれって言われたんですよ、もうお前らは何も考えるなみたいな。衝撃的でした。駒になれってことですよね。全否定ではないのですが、ゼロになる感じでしょうか。今までの経験なんかは全部なかったことになったかのような、ゼロ地点からのスタートです。そこで、ある意味リセットされました。兵士として役に立つために、自分の意見とか考えじゃなくて、まずは言われたことをちゃんとこなせる様にならなければならない。まずは自分を捨てて基礎を身につける。そのために訓練をする。そんな中で、やっぱり出来る人、出来ない人が出てくるんですけど、出来る人も失敗するんですよ。出来る人の失敗でもって、全員が連帯責任で腕立て伏せをやることがあるんです。だからそう考えると、誰しも完璧じゃないというか、何かしら失敗しちゃうこともあるんだなと。失敗した人を責めてたら、次は自分のせいでやることもあるし。どんな人もみんな失敗するものなんだから、失敗を責めるんじゃなくて、その教訓を生かしつつ、挽回するために次みんなでどう作戦を組み立てて行くのか。そういうポジティブな考え方を勉強出来たのかなと思います。 そして「こんな優秀な人でも失敗するんだから、自分も失敗していいんだ」と思えたんです。それでかなり気持ちが楽になりました。当時の上官が身につけていたスイス製の時計(オメガのシーマスターだったと思います)を見せてもらって機械式時計の世界に興味を持ったのもこの頃だったのですが、割と自然に独立時計師を目指そうと思えたのは、この時の経験がベースあったからだと思います。そしてなんとなくですが、自衛隊に入って「死生観」みたいなものが自分の中に出来たことも大きかったのかな、と思っています。演習で山の中に行って、穴を掘って陣地を作る。そこに砲弾か何か飛んで来てバーンと爆発した時って、完全に生き死にを決めるのは運です。若い人も、お年寄りも、優秀な人も、そうでない人も、それらの属性と何の関係もなく皆死んでしまう。誰しもいつか死ぬんだ、失敗してもなんとかなるんだというのは、すごく教わりました。今も自分の中でこの時の経験が僕の土台になっているように感じます。 菊野昌宏のHistory 1851田中久重が「万年時計」を発表1983菊野昌宏、北海道深川市に生まれる1989深川市立深川小学校入学1993小学5年生の時、半年間くらい不登校になる。1995深川市立深川中学校入学。サッカー部に入り、以後6年間続ける。1998北海道深川西高校入学2001高校卒業後、自衛隊に入隊。2005自衛隊を除隊し、ヒコ・みづのジュエリーカレッジへ入学2008ヒコ・みづのジュエリーカレッジを卒業、そのまま研究生として同校に残り、時計製作を続ける。2009ヒコ・みづのジュエリーカレッジで、時計製作の講師に抜擢される。2010田中久重が製作した「万年時計」にインスピレーションを得て、自動割駒式和時計の腕時計を3ヶ月にて製作。この時計が縁で尊敬する独立時計師、フィリップ・デュフォーとの出会いを果たす。2011スイスで開かれる世界最大の時計・宝飾品の見本市バーゼル・ワールドにて「不定時法腕時計」(和時計)を初出展。AHCI準会員となる。2012バーゼル・ワールドにて「Tourbillon 2012」 発表。2013バーゼル・ワールドにて「ORIZURU」発表。 30歳にして日本人初のAHCI正会員となる。2014「MOKUME」 製作2015「和時計改 」製作2016「和時計改 暁鐘」 製作2017「和時計改 而今」 製作2018「朔望SAKUBOU」 製作 菊野昌宏の趣味 趣味ですが、読書や映画、ボードゲームなんかもやりますが、仕事が趣味みたいな感じで、仕事と趣味を区切っていないシームレスな感じです。 生命の歴史なんかも含めて、歴史が好きで色々と調べたり本を読んだりしています。最近では『ホモ・デウス』という本が面白かったですね。 『サピエンス全史』を書いた方の続編みたいな感じで最新作です。 普段日中は工房にいる感じですけど、その間は時計を作っている時もあれば、本を読んでいたりする時もあるし、新しい時計のアイデアだったり図面を描いたりして次の時計の構想を練るのも楽しんでいます。 現在、時計学校に週に1日だけ研修生を教えに行っています。 時計の修理コース3年間が終わった後に、1年残って時計づくりをしたいと志す人に授業をするのですが、教えるというだけではなく、一緒に考え、今の自分の持つ技術を伝承するということを意識してやっています。 それも楽しくて充実した時間です。 菊野昌宏のページについてのご意見、ご質問、メッセージ等お気軽にお問い合わせ下さい。こちらからの返信が迷惑メールフィルタリング機能により、迷惑メールとして扱われる場合がございます。「迷惑メールフォルダ」や「削除フォルダ」等をご確認ください。また、メールがブロックされ返信できない場合があります。1週間過ぎても返信がない場合は、お手数ですがFacebookからメッセージをお送り頂ければ幸いです。