肺結核が取り持った縁
僕は、佐賀県三養基郡みやき町で1967年(昭和42年)に生まれました。
みやき町には九州で唯一の国立結核療養所があるのですが、僕の両親は、そこで出会いました。
そう、僕の両親は二人とも肺結核患者だったんです。
二人は治療のためみやき町にある結核療養所に入院している間に知り合って、結婚しました。退所した後も二人は度々通院する必要性があったことから、そのままみやき町に残って、僕が生まれました。
実は、病気の関係で長いこと療養所で過ごさなければならなかった父は、小学校しか出ていません。出来る仕事も限られていたからだとでしょう、父は、佐賀競馬場の側で雀荘を営み、僕たち家族を養ってくれました。
小学校時代の空白の3年間
今もよく覚えているのですが、小学校3年生の頃、東映マンガ祭の映画を見に父と出かけた際のことです。父親と映画館に行ってアニメ映画を観始めたら、途中で猛烈に頭が痛くなって映画どころじゃなくなったんです。
それで急いで父親が僕のことを病院に連れて行ってくれて検査を受けた結果、僕は肺結核が悪化して‘結核性髄膜炎’という重い病気にかかっていることがわかりました。
その後、検査入院を経て僕は約3年間も療養所暮らしをしたのですが、この3年間の空白はとてもしんどかったですね。僕には2人の兄弟(弟妹)がいるのですが、二人に病気を移してはいけないということで、僕は2人に3年間全く会えなかったんです。
その後、僕は奇跡的に完治し、実家に戻ることが出来たのですが、3年ぶりに家族の元に帰った時は、4人家族に新たに自分が加わるような気がして、とても気後れした記憶があります。
雀荘経営と「赤旗」
表立って僕たち家族の病気(結核)のことは周りに話していなかったのですが、何故かご近所に噂が広まり、おまけに競馬場の隣で雀荘をやっているということで、偏見やら差別で僕たち家族は肩身が狭い思いをしました。
そんなことから、僕の両親は、(社会のメンバーは皆平等であるべきという左寄りの考えを持つようになり)「赤旗」(共産党の機関紙)を定期購読していました。
今にして思えば、僕が、フラットな関係性を尊重したコーチングという仕事をやっている原点はここにあるような気がしています。
受験に失敗し、専門学校へ
とはいえ私の母は、息子には同じ苦労をして欲しくないと思って、そこそこ勉強が出来ていた僕に「正勝はしっかり勉強して、人様から後ろ指を刺されないような大企業に入りなさい」とよく言っていました。
僕も、そんな母の期待に応えたいと勉強を頑張り、高校受験では西南学院高校を受験しました。
ところが田舎者だった僕は試験当日、みやき町から出てきて移動中の福岡市営地下鉄の慣れない改札口でトラップにかかってしまいます。
自動改札に切符を入れたら、歩いた先に切符が出てくることが僕にはわからず、戸惑ってその場であたふたしてしまい、その勢いのまま試験本番も浮き足立ってしまい見事に高校受験に失敗してしまったんです。
当時は、あちゃーっと思ったのですが、今思えばこれは僕の人生にとって大きな転機だったような気がしています。
結局、地元の高校に入学するのですが、その後大学受験にも失敗してしまい僕は福岡にある福岡デザイナーズ学院という専門学校に入学し、そこでグラフィックデザインを学びました。
外資系企業へ転職
社会人になって最初のキャリアは、福岡の某大手不動産会社でチラシ等を作るグラフィックデザイナーの仕事でした。その後、一度会社を辞めてニュージーランドでの1年間のワーキングホリデーを経て、再度同じ会社に戻り、博多区の大型商業施設の開業に携わった後、僕は日本に上陸したばかりのコストコに入社しました。
コストコでの経験はまさにカルチャーショックでした。
日本の会社では上司から怒鳴られるのは日常茶飯事だったのですが、コストコは本当にフラットな環境で、店長とアルバイトも名前で呼び合っていました。怒鳴られることなんて1回もなくて、日本的なサービスの必要性も全くなかったんですよね。
印象的だったのは生肉部門のマネージャーだった日系人のサムとの出会いです。
彼は地元で仕事が見つからなくてコストコでアルバイトを続けてたら、そのうち正社員からマネージャーになって、今回はコストコの日本支社立ち上げで、日本に来ることになったという話をしてくれたんです。「そんなチャンスがあるんだ!」って本当に衝撃を受けました。この時の経験は結構大きかったですね。
ベネトンにて大きな挫折を経験し、コーチングと向き合う
2003年に転職したベネトンではマネージャーとして入社しましたが、僕は、店長を兼任しながらエリアマネージャーをやっていた際に、その後の大きな転機に繋がる大きな挫折を体験しました。
それは、マネージャーとして僕自身が統括していた中国四国地区のエリアの店長達を集めた店長会議での出来事でした。
会議を始めて程なくその場に集まっていた女性店長達から不穏な空気が漂っていることに僕は気がつきました。
ある女性店長が口火を切り、僕にこう言いました。
『どうして、私たちのことを全然認めてくれないんですか!』
僕はこう返しました。
『認められる数字だと思っているの?』
その場に集まった女性店長達の多くが泣き出していました。
後日、僕は人事部に呼び出され、マネージャー職からの降格を告げられ、佐賀県鳥栖市のアウトレットモール内の店舗に店長として数年間左遷されました。
その当時の僕のマネージャーとしてのスタンスは、「俺が認めるレベルの数字を上げられるようになるまで必死に這い上がってこい」と言った時代錯誤も甚だしいマッチョなものだったのです。
問題が起きた当初は、自分のマネージャーとしてのスタンスがマッチョなもので現場のスタッフたちに受け入れられていなかったことを冷静に受け止めることすら出来ませんでした。
その後、僕のことを左遷した上司を見返してやろうと鳥取で必死にもがいていた際に、当時何回も繰り返し読んでいた2冊の本(『7つの習慣』と『ひとを動かす』)がきっかけで僕は、“コーチング”と向き合うことが出来ました。
それまでも会社の研修などで、コーチングと接点はあったのですがこのとき初めて僕に必要なものは『これだ!』と思ったんですよね。
その結果、僕のマネージメントスタイルは激変しました。
その後、鳥栖にあるベネトンのアウトレット店舗を任され、新規立ち上げをした際は、全てのメンバーを僕が採用し良い関係性をメンバー全員と築けていたこともあって自ずと自分の成績じゃなくて店舗の成績に意識が移りました。彼らと一緒にいかに店舗を盛り上げていくかを自然と考える様になったのだと思います。
過去に例のない好業績を上げることが出来た結果、数年後には本社に復帰することが出来ました。京都を経て名古屋のエリアマネージャーを務めていた際にそこから本格的にコーチングを習い始めました。
今思えば、挫折するまでの僕は、部下に対してスポ根さながらの”ティーチング”をしていたのだと思います。
でも、ネットが当たり前になって誰でも情報にアクセスできるようになった今日、上司と部下の間に情報量の違いはほとんどないわけで、”ティーチング”は成り立たないのです。
前と比べて、マネージャーとしての仕事の仕方も随分変わりました。ワークライフバランスを考え、スタッフ全員に有給休暇を100パーセント消化してもらうようにした結果、スタッフのパフォーマンスは目に見えて良くなりました。
僕は店舗採用も変えました。
コストコでの経験から色んな人にチャンスを提供したいと考えて、ヤンママやシングルマザーなど色んな経歴の人たちを積極的に採用するようにしました。結果、3時間勤務の人とか色んな働き方の人に合わせてスケジュールを細分化してシフトを組むことが出来るようになって、いろんな人にイキイキと働いてもらえる環境を作れたんじゃないかと思っています。
■H&Mからヘッドハンティングの声がかかる。
そんなある日、突然エリアマネージャーと兼務で店長をしていた旗艦店舗に僕宛の電話がかかってきたんです。2008,9年だったと思います。取ってみるとH&Mからのヘッドハンティングの電話でした。「お店に直接かけて来るのか!」って、かなりびっくりしましたね。
ちょうどその頃はリーマンショックの影響もあったと思うのですが、ベネトンの業績が悪化し、店舗もいくつか閉鎖されていたので先行きに悶々としていた時期でした。ベネトン本社の方針で、海外で販売しているパターン(洋服の型)をそのまま日本市場で販売していたので日本人の体型に合っていなかったことも良くなかったんだと思います。
他方、H&Mはというと、ちょうど銀座店をオープンして間もない頃でした。これから全国展開をしていくぞっていう日本事業立ち上げの右肩上がりの時期でした。
僕は40歳を過ぎていたから新しいことに挑戦するのは正直怖かったんですけど、「自分の力を試したい!」と思う気持ちが優ってH&Mに転職することにしました。
H&Mに入社してみると、周りはすごい学歴やキャリアの持ち主だったり、語学が堪能だったり皆何かしら一芸に秀でている優秀な人たちばかりでした。
多少学歴コンプレックスを抱えていた僕は、最初、コテンパンにやられましたね。僕がこれまで必死に身につけてきたことを誰もが普通にこなしていて「すごい!」の一言でした。
でも、逆にいうと学歴がない自分がこれまでやってきたことが間違えじゃなかったことが確認出来たことは嬉しかったし、自信に繋がりました。
H&Mでは会社の仕組みとして1on1をやっていました。ベネトンでは個人的に自分のチームで1on1をやっていましたが、会社として仕組み化はされていませんでした。H&Mでは全てが最新の仕組みをベースにシステム化されててスゴイ会社だなって率直に思いましたね。
■コーチングスクール受講生と共に会社を立ち上げる
その後、銀座コーチングスクール福岡校の校長にならないかってお声がけしてもらったことをきっかけに、福岡で独立しました。いずれの両親も福岡にいることからずっと福岡に戻りたいと思っていたので、決断することが出来ました。
開業後、最初にスタートしたコーチング講座に、僕より一回り近く若い税理士が受講してくれたのですが、彼とすぐに意気投合し、一緒に株式会社トイカケルという会社を設立し、私がこの会社の代表に就任し今に至っています。
■今後の目標
短期中期では、会社の業績等の目標はもちろんありますが、僕自身の目標は、人生を通じて、シンプルに”江口正勝になる”ということです。自分自身の本当の姿を表現し、本当に自分らしい自分になって行きたいと思っています。