峰雅紀 峰雅紀弁理士事務所弁理士=法律と技術の専門家 \シェアする/ 【Bluebookから】弁理士という職業について 「弁理士」とは、「特許」、「実用新案」、「意匠」、「商標」などの“知的財産”についての専門家です。具体的な仕事は、依頼者の依頼に応じて“知的財産権”を取得するための特許庁への大変複雑な出願手続きのお手伝いをすることです。 弁理士 峰雅紀の流儀 弁理士の仕事は、ある発明をした人がいい特許を取れる様にサポートすることです。それゆえに私は、書類を通じて、審査官が「なるほど凄い!これはいい技術だ!」と納得出来る様にその発明を上手に褒めることが何より大事だと考えています。具体的には、これからお伝えする二つの能力がキモになると思っています。①発明を正確に理解する能力があることその前提としてまず一つ目は、発明を正確に理解するということです。私は、東京大学と九州大学で計9年間、幅広く科学技術を学ぶ一方、大学院で5年間、太陽電池の研究をしてきましたので、結果的に発明を正確に理解する能力をずっと磨くことが出来ました。②発明を“客観的に”褒める表現力があること発明を正確に理解した上で、その発明を“客観的に”褒める表現力が弁理士にとって何より大切な能力だと私は思っています。この“客観的に”の意味は、審査官が「すごい!」か否かを審査する審査官が持つ審査基準のルールに基づいて、発明を褒めることが出来るかということです。ここで気をつけないといけないのは、審査官は量的な違いはあまり評価しないということです(これを専門用語では“顕著な効果”と呼びます)。そうではなくて、質的に違うこと(これを“異質な効果”と呼びます)に対しては、審査官は「すごい!」と言ってくれます。説明が論理的でないと審査官は納得しないのですが、技術的な進歩が論理的だと特許してくれません。質的に違うポイントを見つけて審査官を納得させて「すごい!」と思わせることが弁理士の腕の見せ所です。その際に私は、本人から出てこなかった本質を捉える言葉を見つけることが肝だと考えています。そんな言葉を見つけることが出来た時は自分ならではのサポートが出来たなと嬉しく思います。そういう意味で言葉のセンスがとても大事だと思っています。僕は小さい頃から本を読むことが大好きでいわゆる“本の虫”だったので、いろんな言葉とたくさん触れ合ってきたことがこの仕事に活きていると感じています。また、本来あるものを顕在化させる力が必要となるので、言葉になりにくいものをいかに言葉にしていくか、見たままを把握して言語化する力が大事になってくるので、僕はこの力を鍛えるために数年前から座禅を続けています。 アクセス情報 事務所名MINE特許事務所問い合わせご紹介のみ受付Mail Address 営業時間9:00〜18:00定休日土曜日 日曜日 祝日Address福岡市中央区大手門1-8-8 ベイサージュ大手門 403 峰雅紀の自己紹介 本を読むことが好きだった子供時代 幼少期は、福岡市中央区伊崎や荒戸のあたりに住んでいました。僕の最初の記憶は確か2歳頃の出来事だと思いますが、「カチカチ山」を親やおじいちゃん・おばあちゃんの前で暗唱していたことを今でもよく覚えています。本が本当に大好きでいつも何か本を開いて読んでいる子供でした。両親が共働きだったため、僕はよく祖父母の家に預けられていたので、典型的なおじいちゃん子、おばあちゃん子に育ちました。小学校(当仁小学校)の頃の僕は、学級委員を任せられるような優等生タイプの子供でしたが、中学校(当仁中学校)に入ってもそこは変わりませんでした。中学生の頃は、結構学校が荒れていた時代だったので、違反服を着るのがほぼ当たり前だったのですが、僕一人、標準服を着ていたので、周りの友人からは「峰くんルック」とからかい半分呼ばれていました(笑) 中学校の頃の僕は、英進館(塾)とバドミントンに熱中していました。高校受験では、補欠で神戸の灘高にも合格したのですが、地元の高校に行くと決めていたので修猷館高校に入学しました。 運動会の実行委員長に 修猷館高校では書道部に入部しました。修猷館では文化部の学生は1年次の運動会のときに応援団をすることになっていて、体力的にハードな夏休みを送ります。僕は、それも含めて運動会にのめり込んで、高校3年の時に運動会の運営委員長をやることになりました。学生が運動会を自主的に運営するのは修猷館の伝統なんです。運動会だけじゃなくて、渉外担当も学生がやるので、修猷館OBのところに出向いて、200〜300人くらいが座れるスタンドの手配をお願いしに行くこともありました。修猷館の学生にとっての運動会は、ちょうど博多の人達にとっての「山笠」みたいなものなんですよね。みんな高校生活の全てを懸けている様な感じでした。4ブロックに分かれて競い合うのですが、それぞれのブロック長は当然花形でした。他方、運営委員会は下部組織を含めると100名くらいの組織で、もちろん裏方の仕事なのですが、僕は2年生の秋頃に運営委員長になることを期待されて以来ずっと「運動会を成功させないといけない」という物凄いプレッシャーを感じていました。あまりのプレッシャーに実は自分が自殺するんじゃないかとすら思っていました。僕のせいで、みんなが大事にしている運動会を台無しにするんじゃないかと思っていたんです。授業中やテスト中にブロックのクラス分けをどうしようかと考えたりもしていて珍しく先生から一喝されることもありました。そんな中、運営委員会の仲間と話すのがとてもいいガス抜きになっていたんだと思います。あるとき、放課後に彼らと本当にたわいもない話をしていて笑っていたのですが、なんだかフッと力が抜ける感じがしたんですよね。それからはプレッシャーを過剰に感じることなく運動会を創り上げるプロセスを楽しみながら大会前日を迎えることが出来ました。いよいよ明日本番という運動会前日にちょっとした事件が起きました。練習時間は19時までと各ブロック長と取り決めていたのですが、全ブロックがその時間を守らずに延々と暗くなるまで練習を続けていたんです。僕は、学校側が認めてくれている自治は責任を果たしてこそなので、僕たちが自主的にルールを守れない運動会は意味がないと考えて、次の日の運動会は中止すべきだとブロック長たちに宣言しました。でも同席していた顧問の先生から「我を通すんじゃなくて、そういう時に責任者として、許してやることもお前の役割なんじゃないか」って言われたんですよね。僕はその先生の一言で、ハッと思い直し、運動会を中止するという考えを思い留まり、その代わり、それぞれのブロック責任者8名を手が腫れるくらいビンタして手打ちにしました。次の日の運動会は大いに盛り上がり、僕は、運動会の最後に運営委員会のメンバーやブロック長から胴上げしてもらいました。そんなわけで僕は、高校2年の秋以降の約1年間を運動会につぎ込みました。運動会が終わった後もA4で100枚以上にもなる引き継ぎ資料を作成して、現役時代に大学受験の勉強にうまく切り替えられませんでした。当然のように現役の時は大学受験に失敗しました。 一浪を経て東大へ 浪人することになって僕は駿台予備校に通ったのですが、この時は本当に楽しかったです。僕の今の仕事の原点があるような気がしています。とても個性的な英語の先生がいて、授業の時に哲学や技術の話もしてくれたのですが、それがやたら面白かったんです。受験の直前には、その先生が主催する英語と小論文を特訓する合宿に参加するため京都まで行ったこともありました。その先生を慕う仲間とお互いに自分が面白いと思うことを説明し合うのがとても楽しかったんですよね。その時の仲間は大学に入った後も1〜2ヶ月に1度は東京や京都に集まって勉強会をしていました。2回目の受験ですが、東京大学理科I類と慶應大学湘南藤沢キャンパスに無事合格し、東大入学後は駒場キャンパスで4年間を過ごし、基礎科学科という学科で広く浅くサイエンス全般を学びました。 東京大学から九州大学大学院へ進学し、周りを驚かせる。 大学2年生の時に福岡に帰ることを決め、僕は東京大学ではなく九州大学の大学院に進学しました。前代未聞の選択だと進学先の教授を含めて周りからは散々言われました。でも僕にとっては、ガンを患っていたおじいちゃんの側に少しでも長くいたいという想いが何より大切だったので福岡に戻ることに一切迷いはありませんでした。実は大学2年の時には大学を中退して九州に戻ることを考えていたのですが、おじいちゃんや家族からの反対でやめた経緯があります。九大の大学院では博士課程まで在籍し、ノーベル賞を取った白川博士が研究していた技術分野である導電性高分子を中心に太陽電池の研究を幅広くしました。大学学部の時と同様に一つのことを深掘りするよりも、科学全般について幅広く見識を広めることに重点を置いた研究をしていました。このことが、今の弁理士の仕事にとても役に立っています。 チームに貢献するために“弁理士”の道へ 大学院生の時に研究者になるつもりがなかった僕は、「人と関わりながら、科学や技術の仕事をしたい」と漠然と考えていました。例えば、化学について物書きをする“サイエンスライター”と、メーカーの社内文書を翻訳する“技術翻訳”という仕事が候補でした。でも、ちょうど同じ頃、中小企業の経営者と発明や起業のアイデアについて議論をする“発明起業塾”という集まりに参加するようになって、その活動がとても楽しかったんですよね。ちょうど浪人生の頃に参加していた先生の勉強会に近いノリだったと思います。発明や起業のアイデアが出てきたら、そのアイデアを知的財産として守るために弁理士がいないといけないのですが、メンバーの中に弁理士の先生が一人もいなかったんですよね、それならば僕が弁理士の役割を担おうと思い立ったんです。九大にてドクターを終え、弁理士事務所に入ったのはリーマンショックが起きた2008年、弁理士の試験に合格したのはその4年後の2012年でした。僕は要領よく勉強するのが苦手で、自分がわからないところをそのままの状態で置いておけないんです。全て理解しないと気が済まないんですよね。僕の欠点だと思っているのですが、結局じっくり全てを理解するまで勉強を重ね5回受験した末にようやく合格しました。 今後の目標_弁理士として 今後の目標ですが、弁理士の立場から若者たちの事業化支援をしたいとずっと思っています。自分がこの世に生きた意味を残したんですよね。人類や社会に対して何かプラスの貢献がしたいんです。ネイティブアメリカンは、200年先の子孫にとって意味があることかどうかを基準に物事を決めていたらしいのですが、僕も同じようにありたいと思っています。社会に貢献する一番良い方法は、人を育てることだと思っています。そして人を育てる時に一番効果があるのは事業に挑戦してもらうことなのではないかって、僕は思っているんです。若い人に、「世の中に対して自分は貢献できるんだ」という感覚を持ってもらうために、その実績を持てる機会を作るのが僕の大きな役割だと思っています。 峰雅紀の趣味 【座禅】弁理士の仕事で大切なのは、言葉になりにくいものをいかに言葉にしていくかということです。そこで感じたことをそのまま丸ごと把握して、言語化する能力を鍛える目的で坐禅を始めたのですが、今は座禅自体にハマっています。 【バドミントン】おじいちゃんが九州のシニアバトミントンのチャンピオンだったので、小さかった頃に教えてもらったのがきっかけです。中学までは部活で一生懸命やっていましたが、今ははあまりやっていないですね。同じように教わった弟は、国体のバトミントン30代以上の部で優勝するまでになりました。弟がどんどん強くなることが最初は悔しかったけど、今はそんな弟を頼もしく思っています。 【書道】高校生の時は書道部に所属していたくらいなので、書を見ることが好きです。書家でいうと4大書家の1人である「顔真卿」の作品が好きです。 【BNI】 仕事の一環で、BNIという団体に入っているのですが、BNIを通じて紹介してもらうことも紹介することも僕の生きる喜びにつながっていると感じています。 峰雅紀のHISTORY 1978 福岡市生まれ。教育熱心な両親と祖父母や親戚に愛情豊かに育まれる。1992-1994バドミントンと受験勉強に熱中1996福岡県立修猷館高校の運動会運営委員長1997-2001 認知科学・認知哲学・複雑系の世界に触れる。バドミントンにも熱中2002福岡に戻り、九州大学大学院の修士課程入学2004 友人達とNPO立ち上げ2005日本ファシリテーション協会に加入2005発明起業塾に参加2008特許事務所で勤務開始2008博士(工学)号を九州大学から授与2012弁理士登録2012BNIに加入2014座禅会に参加2017高校生の発明の特許化を支援2019MINE特許事務所開設