宮城雅子

宮城雅子建築設計事務所
お客様の期待を超える『空気感』を創る

宮城雅子のプロフィール画像です。

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宮城雅子建築設計事務所について

福岡市を中心に九州各地で数多くの魅力的な店舗や住宅など様々な建築を手がけてきた建築家宮城雅子が代表を務める建築設計事務所です。

福岡市薬院の老舗カフェ「カフェ・ソネス」、篠栗町の「喫茶・陶花」、糸島の川久保酒店・・・どれも人気の繁盛店ばかりです。



Bluebookではそんな実力派女性建築家である彼女の知られざる人生の物語を聞き書き形式にてお伝えします。



旅に出たくなること請け合いです。

建築家・宮城雅子の流儀

建築家を志した原点

大学生の頃、アメリカで旅をして縁あって一軒のレストランと出会いました。

 

そのレストランには週末になると、多くの人が今自分に出来るオシャレをして集まり、夜遅くまで歌い、笑い、語っていました。

そして月曜日には、皆、元気になって自分のお仕事に戻って行っていました。


私は、そのレストランが持つ空間に力に感動をしたことをきっかけに建築家を志し、尊敬できる恩師と出会い育てて頂き、今があります。

 

建築家として私が心掛けていること

大きく二つ、私がお仕事をする上で心掛けていることをお伝えしますね。

お客様のやりたいことを全て聴く。

 

このBluebookのコンテンツを読んでもらってありのままの私のことを知ってもらって、変に気を使わずにやりたいことを全部私に伝えてもらえると本当に助かります。

 

というのが、私が設計する建築は、私の作品では決してなく、お客様のためにする“お仕事”だからです。

 

だからこそお客様からご依頼があった際、まずはお客様が実現したいことを全て聴くことが何より大切なことだと私は考えています。

私が創っているのは「空気感」

 

そして、私がお客様のために創っているのは、間取りでもなく、建物でもなく『空気感』です。

だからこそ他の誰にも造れない私ならではの『お仕事』を生み出せているのではないかと思っています。

この『空気感』を創作する際は、人の動きを想像している最中に、ふと具体的な空間のイメージが湧くことがよくあります。

以前設計した珈琲店の写真をwebサイトで見て下さった方が「ただの写真なのに、お湯が沸いている音がして、コーヒーの匂いがするような気がします」って言ってもらったことがあって、とても嬉しく思いました。

これからもクライアントがやりたいことを全て聴いた上で、私にしか創れない『空気感』をクライアントのために創って行きたいと思っています。

こどもCafeについて

2007年から、こどもカフェという取り組みをライフワークでやっています。4際から7歳までの子供が対象で、子供に本物のお客様の前で働いてもらうイベントです。


きっかけは、友人の「子供と一緒にお食事をできるお店がない」という何気ない一言でした。

“行儀”と“感謝”はイコールだから、実際に子供がお仕事をやってみたら、料理を作る人や運ぶ人に対して感謝の気持ちが生まれて、それが行儀という形に変わるんじゃないかって思ったんです。


だからこそ子供の集中力は2時間が限界って言われているけど、こどもカフェの営業時間は4時間に設定しました。


これまで6回開催していて、2014年には6回目のイベントをオランダのアイントフォーフェンで開催しました。

最終的には子供がレストランデビューするのが目標です。この取り組みを続けることで、子供OKの飲食店が増えるといいなと思っています。

アクセス情報

事務所名宮城雅子建築設計事務所
お問い合わせ092-552-2947
Mail Addressinfo@miyagimasako.com
営業時間9:00〜18:00
定休日土曜日・日曜日
Address福岡県福岡市南区野間1-7-15 サウスクローネ 1001
Websitehttp://www.miyagimasako.com

宮城雅子の自己紹介

非の打ち所がない子供だった。

物心ついた頃から私、運動神経が飛び抜けてよかったんです。


運動会とかで、かけっこしたらいつもアンカーでごぼう抜き。体力測定を受けると、殆どの項目が円グラフの外側に大きくはみ出してました(笑)。だから大人になったら、私は体育の先生になるんだってずっと思っていたんです。

それに加えて、幼稚園の時にカメラマンだった友達のお父さんにスカウトされて、小学校5年生くらいまでモデルのお仕事もしていました。


地元デパートの広告や、ケーキ屋さんの広告とかに載っていたりしたので、街では結構有名な子供だったと思います。街を歩くと誰もが私のことを知ってて、みんなが私のことを褒めたり可愛がったりしてくれました。


だから私、生まれてからずっと人を騙す人がこの世の中にいるなんて想像もつかないような、ある意味天真爛漫な性格に育ったんだと思います。

でもこれが原因で後々いっぱい苦労するんですよね。

そうそう、習い事も色々やってて、小学校で書道8段、珠算1級。勉強も好きだったから非の打ち所がない子供だったと思います。

中・高と陸上を続けたのですが、結局、体育の先生になることは諦めました。

ある日、通っていた高校の女性の体育の先生と話していると、先生が「私、自分の子供の運動会に出たこと一度もないのよ」って話してくれたことがあって、あっ私には体育の先生は無理だって思ったんです。というのが、小さな頃から、私、結婚してお母さんになって子供を育てるのがずっと夢だったので。


体育の先生になる夢を諦めた私が、次になりたいと思ったのが、CA(キャビン・アテンダント)でした。

好奇心が旺盛だったから色んな海外を見て回れる仕事がいいなと思って。でも、タイミングが悪いことにその年、飛行機の墜落事故があって、父親から猛反対にあったことで、泣く泣くCAになる夢は諦めました。

その後目標がないまま、久留米大学商学部になんとなく入学しました。

当時はバブルの終わり頃でまだ世の中は景気が良かったんだと思います。パーティー・コンパニオンのバイトと地元の老舗トンカツ屋さんのバイトなど、いくつか掛け持ちしてまとまったお金が溜まったら、そのたびに海外旅行に出かけていました。

旅がきっかけで建築家の道に

19歳の時に、その当時親しかった友人が好きだったバンド(ザ・プライベーツ)が曲の中で歌っていたアメリカにある小さな街を見つける旅に出かけたんです。知っているのは“ボガルザ”っていう街の名前だけでした。

ロス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、メンフィス。これらの都市を転々としてボガルザを探し回った後、グレイハウンド(長距離バスの名前)に揺られてメンフィスからニューオリンズに移動してたバスの車内で、偶然、ボガルザって停留所を見つけたんです。

あの時は本当に嬉しかった!


ボガルザに着くと、なんとプライベーツが2週間後にまたその街をレコーディングのために訪れることが分かったので、私、帰国を10日間くらい延期して待つことにしたんです。

地元の人たちにとても親切にしてもらって、地元の名士の別宅(豪邸)で寝泊りさせてもらって、生まれて初めてウォーターベットで寝て、待っている間、車まで自由に使わせてもらいました。

ボガルザの真ん中には一軒のレストランがあって、毎週末、街の人たちがそのレストランに思い思いに集まって飲んで踊ったりするですけど、私、そのレストランが持っている空間の力にとても感動しちゃって「空間を作る仕事がしたい!」って強く思ったんです。

帰国後、さっそく空間を作る仕事について調べてみたら、インテリア・コーディネーターと建築家という2つの仕事があることがわかりました。

どっちを目指そうかなって考えたんですけど、音楽に例えると建築家は指揮者で、インテリア・コーディネーターは演奏者だと聞いて、「私はやっぱり指揮者になりたい!」と思って、建築家になろうと決めたんです。


お世話になるならこの先生と決めていた方を

バイト先の女性社長に紹介して頂き、当時から地元久留米で活躍されていた建築家岩橋弘幸先生(以後、岩ちゃん先生)を紹介してもらい、大学卒業後、22歳で岩橋弘幸設計事務所に入れてもらいました。


その後、約10年間、毎月平均15件の仕事を3人のメンバーで続けて、建築家としての力をつけさせてもらいました。

宮城雅子建築設計事務所を立ち上げる

31か2才の時、盲腸になって手術のため入院することになりました。術後の経過が順調だったので、病院の中でやることがなくてずっと暇だったんです。

これまで必死に頑張ってきた10年を振り返って、ふと、このあたりで生き方を軌道修正しようかなって思って事務所を退所することにしたんです。岩ちゃん先生に伝えたところ、先生には快く送り出してもらいました。

最初のお仕事は、中央区薬院にある“カフェ・ソネス”です。

今は老舗だと言われるカフェですが、その時20代だった施主は、当時、私が趣味で友人と運営していたギャラリーを気に入ってくれて、「姉弟で一緒にカフェをやりたいんです!」て設計を依頼してくれました。それまでの福岡にはないスタイルのカフェということで評判を呼び、オーナーの頑張りによって繁盛店になりました。

人生、初めての挫折

独立してしばらく経った頃、深刻なトラブルが起きました。

この時は本当に困って、独立して初めて岩ちゃん先生に相談しました。先生には、「僕たちは請け負って仕事をしているけど、負けちゃダメなんだよ」とアドバイスをもらって、沢山のミラクルが起こりトラブルは鎮火しました。

この件を機に、私は深く反省しました。

これ以降は、施主の言葉を鵜呑みにせず一つ一つしっかり確認して、逐一書面&印鑑を交わすようにしました。万が一に備えて保険にも入りました。

私は、しみじみ、お金が絡むと人は本当に変わるんだなと思いました。それで私は、人生で初めて、人の何を信じていいかわからなくなってしまったんです。

友人が笑っているのも嘘に思えるようになっちゃって。この件で色んな人に迷惑をいっぱいかけて、人生初の挫折を経験して私は生まれて初めての劣等感を感じました。

気がついたら全財産が8万円になり“直島”へ旅に出る。

その後色んなことに対して疑心暗鬼になってしまった私は、仕事も上手くいかなくなってしまい、34、5才の頃だったと思いますが、気がついてみると全財産がなんと8万円だけになってしまっていました。

私は、そこで思い切って、いつか行きたいと思っていた香川県にあるアートの島 “直島“へ旅に出かけました。

直島に着いてすぐ、地元で“直島のおっちゃん”と呼ばれて愛されている有名なおじちゃんに出会ってお話をしました。2年後に再度、友人と一緒に直島を訪れておじちゃんに再会したら、「おお、宮城さん、生きとったんか!」と嬉しそうに声をかけてもらいました。おじちゃんによると、当時の私、本当に今にも死にそうな顔をしていたそうです。

直島に来たかったのは、私が大好きなサイ・トゥオンブリーというアメリカ人アーティストの作品が見たかったからです。私は、美術館で念願だった彼の作品に出会えて、2時間くらいだったと思いますが、彼の作品の前に立ってずっと眺めていました。

その日、夜になって夕食を食べるお金が乏しくて困ったなあと思っていたら、民宿の人が、あちらで宴会があってるから仲間に入れてもらったらどう?と言ってくれて、背に腹は変えられず入れてもらったんです。

その宴会は美術館関係者の集まりだったのですが、 一人、私が美術館の一枚の絵の前で何時間も作品を見ていたのを覚えてくれてて。
結果、その場にいた皆さんが私のことを暖かく迎えてくれました。

その日の夜だったかな、三重に住んでいる友人から久し振りに連絡があって三重に彼女を訪ねることになりました。次の日、徳島から三重に移動の途中、飲食店に入って腹ごしらえをしていると、隣に座ったおじさんが私に声をかけてくれて、しばらくお話をしたんです。

そのおじさんは以前明徳義塾高校で先生をされていた方で引退後、卒業した生徒の様子が気になって全国を一人一人を見て回っている方でした。

なので、お家を持っていない。持っている方がストレスになるからと。

その人が私にこう言ったんです。

「人生にはこうでないといけないということは一つもない、自分がこうであると信じたことを進んでご覧」

この言葉が、じんわり私の心に沁みたんですよね。

この言葉をおじさんからもらって、私、はっと気がついたんです。私は、これまでずっと宮城雅子ってひとを演じてたんだって。

このことに気がついて、すごく気が楽になりました。自分に悩みがあるときは友人に言えるようになったし、きついときは、きついんです。今はしんどいから話が聞けないって相手にちゃんと言えるようになったんです。これは私にとってとてもとても大きなことでした。

トラブルが発生して5年くらい経っていました。

人生で一番びっくりした出来事

その後も、激動の人生は続きました。

私自身が大きな病気に掛かったり(奇跡的に全治しました。)、最愛の父の急死、周りの大切な人達を次々に亡くしたりと、私に神様が試練を与えたかのように様々な出来事があったのですが、話すとこれまた長くなってしまうので、最後に私がこの人生で一番びっくりした出来事について話しますね。


2007年から続けている『こどもCafé』というイベント(詳しくはHobbyの欄を読んで下さい)を、2014年、オランダのアイントフォーフェンという町で開催した後のことです。イベントは大成功。チームのメンバーで祝杯をあげた後、メンバー数名と休暇を取るためパリに移動して数日滞在した際のことです。


一緒にいたメンバーの一人である建築家の町谷さんから、パリのcafeでいきなり、


「結婚を前提に、、、結婚して下さい!」




びっくり仰天した私の口から思わず出た言葉は『はぁ・・・』


普通は、「結婚を前提にお付き合いして下さい!」ですよね? 彼もそういうつもりだったらしいのですが、勢い余って『結婚して下さい!』って言っちゃったらしいのです。


帰国して数日後にお話をお受けしました。


私たちは交際0日で結婚をしました。その後2ヶ月後に入籍、その5ヶ月後には下関で多くの友人家族親戚に祝福してもらって式と披露宴を上げました。



彼と結婚して、私の心の空いていたところが埋まりました。それまでは、実は何年も電気を点けっ放しにしてないと寝ることが出来なかったのですが、電気を消して熟睡出来るようになったんです。


それに結婚するまで私、家に居てもソファーに寄っかかってテレビを見ることが出来かなったんですが、それも出来る様になりました。

夫が私のことを全てあるがままに受け入れてくれたのが良かったんだと思います。

今後について

神様からみたらみんな落ちこぼれ天使なんだと思います。


それぞれの人が、自分の得意なこと・好きなことをして世の中の役に立つことで世界が成り立っているんだと思うんですよね。

だから私はこれからも、私の大好きな建築のお仕事で世の中の役に立っていきたいと思っています。


あっそうそう建築設計の仕事に加えて、お客様から時々「宮城さんがセレクトしたものが買えるといいのに」というリクエストをもらうので、いつか私がセレクトしたものを定期的に販売できる空間を持てたら、と思っています。


プライベートについては、お母さんになることが目標ですね。ジャネット・ジャクソンが50歳で出産してるんだから、私にも出来るはずって思っています(笑)

宮城雅子の趣味

私はパリが好きです。

年に一回は、まとまった時間を作って訪れるようにしています。

パリの空気はそんなに良いわけじゃないはずなんだけど、肌が合うってこういうことなのかも知れませんが、パリに行くと俄然調子が良くなるんです。

パリに滞在している間は特別なことをするわけじゃなくて、アパルトマンを借りて、朝、マルシェに行って新鮮な野菜やパンを買ってきて、家で料理して朝ごはんを食べるといった具合に地元の人みたいに普通に生活するのが好きですね。

宮城雅子のHistory

1969山口県下関市で生まれる。父はエンジニア。母は専業主婦だった。物心つく頃には、いつも走り回っているような子供だった。
1973スカウトされて、モデルのお仕事を始める(小学校5年生ごろまで)
1975地元の小学校入学。運動神経抜群で、おまけにモデルもやっていたので、地域では有名な子供だった。みんなに可愛がってもらった記憶しかない。
1981中学校入学。中・高と陸上をやっていて、県大会でいい成績をとっていた。小学校の頃からずっと将来は体育の先生になりたいと思っていたが、体育の先生になると自分の子供の運動会に参加出来ないことを知り、断念する。お母さんになることが小さい頃からの夢だった。
1987久留米大学商学部入学。当時はバブル全盛期で、バイトでお金を貯めては海外旅行に行っていた。
1988当時の友人がザ・プライベーツというバンドが好きで、彼らがアメリカでレコーディングをした『ボガルサ』という町を探しにアメリカへ。いくつかの街を巡った末に奇跡的にボガルサを見つけ出し、その街のレストランを訪れたことで建築に目覚める。
1991久留米の岩崎弘幸建築事務所に入所し、建築家修行がスタート。
2001盲腸になって入院している最中に、忙しかった10年間を振り返って、ふっと生き方の軌道修正をしたい思い独立。自身の建築事務所を立ち上げる。最初の仕事は、姉弟でカフェをやりたいと相談しにきたクライアントに設計した”カフェ・ソネス”。
2002人生初の挫折。トラブルに。どうにか解決するがこれ以降、人を信じることが出来なくなり、スランプに陥る。
2005気がついたら全財産8万円になる。半分自暴自棄になってずっと生きたいと思っていた四国の直島に旅行へ出かける。
色んな人との出会いから気づきを得て、生き方がふと楽になり、スランプからどうにか脱出する。
2007こどもCafeスタート。
2010重い病にかかり手術を受ける。その後、奇跡的に完治する。同じ年に最愛の父が他界。その数ヶ月後に友人の2人が相次いで亡くなる。命ってなんやろう?と思った。
201410月。こどもCafe海外へ!オランダのアイントフォーフェン市にて第4回こどもCafe開催。世界的家具デザイナーPIET HEIN EEKに協力してもらい、彼のスタジオにて開催。その後休暇で訪れたパリで夫から突然プロポーズを受ける。
201412月に結婚