豊沢志臣

プルデンシャル生命保険株式会社
ライフプランナー

誰よりも熱く、涙もろき男

\シェアする/

Share on facebook
Facebook
Share on twitter
Twitter
Share on email
Email

豊沢志臣の流儀

ライフプランナーとして私が心がけていることは、先入観を捨てること。


価値観の押し売りをせずに保険の販売ありきではなく、親身になってお客様が気付いていない問題の解決や、将来の夢へのお手伝いが出来たらと考えています。

まだ保険に加入されていない方に考えて頂けると有難いのは、改めてあなたやあなたの家族にとっての幸せは何なのだろうか、ということです。その幸せの形を実現するためにお役に立てる保険があれば、ご提案させて頂きたいと思います。

すでに加入している保険をお持ちの方へは、その保険で実現したいことをお話頂けるとその保険の内容があなたの想いに合致しているか確認することが出来ます。

私はライフプランナーを名乗っていますが、保険屋さんとお客様という立ち位置が苦手です。お客様とライフプランナーの枠を超えて、1つの強いチームになりたいと思っています。

野球のチーム内において上下関係が存在しないことと同様に、お客様ともある意味同じ立場で信頼関係を築いていきたいと思っています。

アクセス情報

職業プルデンシャル生命保険株式会社 ライフプランナー
お問い合わせ090-8662-1159
Mail Addressmotoomi.toyozawa@prudential.co.jp
営業時間お客様のご都合に合わせます
定休日不定期の為、お問い合わせ下さい
Address福岡市中央区天神4-4-20 天神ノースフロントビル 6F

豊沢志臣の自己紹介

私がライフプランナーになったきっかけ

プルデンシャル生命のマネージャーの方(現在の上司です)から、転職の誘いを頂いた時、ちょうど私が監督を務める「伊左座ヤンキース」のある選手のお父さんが病気で亡くなったという知らせを受けたタイミングでした。

私は野球を教えることはできますが、父親を亡くした彼に対しては何もしてあげることが出来ませんでした。その時、私は「自分がもしライフプランナーになったら、野球だけではなくて、子供達の家族のサポートもしてあげられるかも知れない」と思ったことがきっかけでライフプランナーになることに決めました。

祖父と私と野球の物語

いつも無口で不機嫌そうな祖父。
そんな祖父が私は嫌いでした。

子供心にどう接して良いか分からず、ちょっと苦手な存在だったのです。

    

小学3年生の夏休みにそんな関係にちょっとした変化が訪れます。


私が祖父の部屋の前をふらっと横切った際に祖父の様子を見てみると、そこにはテレビの前に噛り付いて夏の甲子園大会を熱心に観ている祖父の姿がありました。


その時の祖父の様子は、私が知っている不愛想な祖父とは大分違っていたので、私は祖父に興味を持ち、部屋に入っておずおずと彼の隣に座りました。



祖父はその試合を観ながら私に野球のことを色々と楽しそうに語ってくれました。私の中で祖父の印象がガラッと変った瞬間でした。

今思えば、祖父は口下手で不器用だったのだと思います。
よく言えば高倉健のような感じでしょうか(ちなみに高倉健は私の母校の先輩です)。
     

その年の秋、私はもっと祖父と仲良くなりたいと思い、9歳の誕生日9月8日に地元の少年野球チーム「伊左座ヤンキース」に入団しました。もともと豊沢家は野球が好きな一族で、「伊左座ヤンキース」はなんと大叔父(祖父の弟)が監督をしていました。入団してから最初の半年は球拾いの毎日でしたが、次の4年生でレギュラーになることができました(守りのポジションはセカンド)。

  

私が試合に出るようになると、祖父は度々私の試合に足を運んでくれるようになりました。でもはにかみ屋の祖父はいつも物陰から目立たないように私の活躍を応援してくれていました。今思い返しても祖父らしいなと思います。



「もっと上手くなりたい」「もっと祖父に喜んでもらいたい」という思いで練習に励むと私の野球の技術はメキメキと上達していきました。
小学5年生になる頃には、チームの主力選手となり三冠王にもなりました。

    


そこには父の存在もありました。父自体は野球をしてはいませんでしたが、大の「ドカベン」(野球漫画の名作です)好き。私が野球を始めると父は豹変しました。

「巨人の星」に出てくる星一徹になったのです。

家庭が地獄に変わりました。
  


外で野球の練習に明け暮れ疲れて家に帰ってくると、今度は父のシゴキが待っていました。
まず家の前で、大の大人が6mほど離れた至近距離から全力で投げてくるハーフバウンドのボールを体で止めて後ろに逸らさないようにする練習を延々1時間。

   

室内に入ってからは、ゴルフのスポンジボールを使ったティーバッティング練習。スポンジボールの芯を捉えるのはとても難しく、1年間練習を続けてようやく芯を捉えることが出来るようになると押入れの襖(ふすま)にボールがめり込むような鋭いスイングができるようになりました。父と一緒に穴だらけになった襖貼りを何度もしたのは今となっては良い思い出です。




その後の祖父ですが、私が5年生になる頃にはガンを発症し入院生活を余儀なくされていました。家族と一緒に病院までお見舞いに行くと、私の試合のビデオを病室のテレビで嬉しそうに観ていることがよくありました。


ガンが進行して病状が悪化した祖父は病院に無理を言って最後の外泊をお願いし、ヒーターを目一杯かけた車の助手席に乗せられ、冬真っ只中で風荒ぶグランドまで私の試合を応援しにきてくれました。野球が私と大好きな祖父を結びつけてくれました。
   

私のその後についてですが、地元の中学入学後も野球を続け、高校(福岡県立東筑高校)と大学(北九州市立大学)はスポーツ推薦で入学しました。

  

中学校の頃までは「プロ野球選手に俺が成らなければ誰がなるんだ」ぐらいに思っていましたが、高校3年生頃には、上には上がいるという現実を目の当たりにしてプロ野球選手になる夢は諦めました。とはいえ私の中でのモチベーションは、一貫して自分の夢を叶えるというよりも、仲間と一緒に全国大会に出たい、少しでも一緒に長く野球をやっていたい、という想いだったように思います。



父は、私の野球センス・身体能力に妹の勝気な性格が加わっていたらプロ野球選手になっていたのではないかと言います。

中学校入学時には、地元の実力ある硬式野球のクラブチームから誘いが来ていましたが、小学校時代の仲間と野球を続けたいという想いを私は優先して、お誘いを断り、中学校の軟式野球部に入りました。そもそも私が野球を始めた動機からして祖父と仲良くなりたかったからなので、仲間と野球を続ける選択肢を選んだことに迷いはありませんでした。
    

今は少年野球の指導者として野球に取り組み続けています。


10年以上前から私が所属していた「伊左座ヤンキース」で監督をしています。

2013年には嬉しいことに高円宮賜杯全日本学童マクドナルドトーナメント福岡県大会で優勝し、東京の明治神宮球場にて行われる全国大会に出場することが出来ました(成績は全国ベスト16)。
野球は私に仲間やチームの大切さを教えてくれました。



本業のライフプランナーにおいても私は、お客様一人一人とそのご家族の幸せを作り上げていくための『チームの一員』でありたいと思っています。

豊沢志臣のHistory

19829月8日に福岡県遠賀郡水巻町にて野球好きの一族に生まれる(乙女座です)。
1989水巻町立伊左座小学校入学。
1990小学生の頃は、田んぼの中で庭球野球をやって友達と遊んでいた。今思えば、凸凹の田んぼの上で野球をやることで、体幹が鍛えられた。
1991大叔父(祖父の弟)が監督を務める少年野球チーム「伊左座ヤンキース」に小学3年生の誕生日に入団。半年間は球拾いの日々。次の年、小学校4年生でレギュラーになりセカンドを守る。
1992ドカベンが好きな父親が豹変。父子鷹で野球の特訓がスタートする。家の中にて、ゴルフのスポンジボールを用いたティーバッティング特訓。芯を捉えると襖に穴があく。1年続けてようやく襖に穴を開けられるように。
ハーフバウンド特訓。6mくらいの距離から大の大人である父が全力で投げてくるボールを取るトレーニング(1時間)などなど。
1993小学校5年生の時に祖父は手術をしたが、翌年1月に亡くなる。
1994小学校6年生。ピッチャーで、3番ないし4番を打ちキャプテン。4つの大会に出場して3つ優勝し、MVP選手に選出される。
1995バレーのクラス対抗戦にて友人3人でふざけて下ネタを連発。終わった後で職員室奥の部屋に呼ばれて先生に往復ビンタ20数発撃たれて血だらけに。今思えばすごい愛のムチだった。
1995水巻町立水巻南中学校入学。硬式野球クラブチームに入部する予定だったが、中学校にて部活動の軟式野球部に入った。6名の同級生ともっと一緒に野球がやりたかった。
1996チームのキャプテンに。新人戦福岡県大会で優勝する。
1998進学校の福岡県立東筑高校(甲子園の常連校)にスポーツ推薦で入学。最初の学内模試で400人中398番の成績を取る。ちなみに下の2人は当日病欠してたことが判明。ビリの成績を取って流石に凹む。野球部に入部し1年生の秋から5番レフトでレギュラー奪取。
1999高校2年生になり事件発生。1年生にレギュラー(レフトのポジション)を奪われる。その後本気になって練習するようになった。
2000高校3年生。副キャプテン1番センター。チャンスを作る役目だったが勝負強さを見込まれ4番に。しかし、最後の夏の大会前に腰の分離症により満足に動く事が出来ず、最後の試合はスタメンを外れ、不完全燃焼で高校野球生活を終える。
2001大学推薦で北九州市立大学夜間部入学。硬式野球部に入るが、腰の分離症の影響で大学1年、2年は裏方を務める。
2003野球部の監督に「本格的にコーチにならないか。」との話を受けるも、大学まで親に野球をさせてもらっている感謝の気持ちがあり、「親にリーグ戦で1本でもヒットを打つ姿を見せたい。」と回答し、現役にこだわる。
2004九州六大学春季リーグの、優勝決定戦においてサヨナラのホームを踏んで優勝し、全国大学選手権(明治神宮大会)に出場。
2005消防士を目指し一年就職浪人をするが、筆記試験に落ちて消防士になることを断念する。
 
2005小学校の頃に在籍していた伊左座ヤンキースのコーチに就任。 15歳離れた弟が、伊左座ヤンキースに自分の誕生日9月8日に入団する。
2006日鐵運輸(現 日鉄物流八幡)に入社
2007伊左座ヤンキースの監督に就任。
2010妻の誕生日2010年2月4日に入籍する。
2013監督を務める伊左座ヤンキースが、第33回高円宮賜杯全日本学童マクドナルドトーナメント福岡県大会を勝ち抜き、小学生の甲子園である、全国大会(明治神宮大会)へ出場し、結果は全国大会ベスト16。 大学時代のプレイヤーとして、そして監督としても明治神宮球場の地を踏む事となる。
2017新たな自分への挑戦のため転職を決め、プルデンシャル生命保険のライフプランナーとなる。
201811月に水巻町の教育功労者表彰 を受ける。
20182013年以来の高円宮賜杯全日本学童マクドナルドトーナメント福岡県大会の決勝まで進むも、惜しくも敗れ二度目の全国大会出場は叶わず。
2029小学生でもスタンドインのホームランとなるような、少年用の伊左座ヤンキースタジアムを建設し、監督の職務を教え子に譲り、総監督に就任。
2038妻の夢であるカフェをオープンし、妻に喜んでもらう。

豊沢志臣の趣味

【カフェ巡り】
将来は定年退職後に妻と一緒にカフェを開きたいと思っています。

【カラオケ】
平井大が好きで、彼が歌う「Beautiful」をよく歌います。

【オムライス】
食べ物でいうとなぜか僕はオムライスが昔から好きで、小倉南区にあるサンリブシティ小倉近くのFluffy’sのオムライスがお気に入りです。

\Bluebookからのお知らせ/

Bluebookのサポートメンバー制度、
始めました。

詳しくはこちらをチェック!